覚悟のない者が導かれる
内田弥生神学生 奨励要約
2026年3月8日
列王記上19章9,10節
ルカによる福音書9章57-62節
3月6日は、神学校の卒業式でした。学校での5年間は、神様からいただいた贅沢な時間だったと言えるかもしれません。2000年のクリスマスに洗礼を受けてから21年を経て神学校に導かれました。なんでもっと早く学校に行かなかったのだろうと思うこともありますが、その時は、まだ時ではなかったのです。そして、神学校に行きたいと思うきっかけも、あさひ教会が小さく弱くされたときでした。決して良い時にみちびかれたのではありませんでした。
今年の1月の末に伝道師試験がありましたが、その時の旧約の聖書箇所は創世記12章1-4節でした。4節に「アブラムはハランを出たとき75歳であった」ここを見て、あーまだ私は70歳だ!と思ったのでした。アブラムは、主に「あなたの生まれた地と親族、父の家を離れ私の示す土地に行きなさい」と言われて従いました。それはどことも知らされずに従う過酷な旅を、聖書は「祝福」と記しています。どんな過酷な何があるかわからない旅を「祝福」とする主。
本日の箇所は、このアブラムとは全く反対です。イエスに、ある男が自分から「あなたがお出になる所なら、どこへでも従ってまいります」。これはイエスがサマリアからエルサレムへの旅の途中の出来事です。「天に上げられる日が満ちたので」少し前の節に、そのことが記されています。イエスが十字架への道を行かれる途中の出来事という事ができます。サマリアの村人たちはエルサレムへと向かっているのを知って一切かかわりを持ちたくないと思っていました。それはユダヤ人との確執が激しかったからという事でもあります。このようなイエスへの屈辱的な態度のサマリア人に弟子のヤコブとヨハネは、イエスの名において火を下し、焼き滅ぼすようにと言います。この二人は火は与えられると信じていました。しかしこれに対してイエスはこの二人をお叱りになりました。このような弟子の態度はしかし、イエスへの熱意と献身の証と受け止めるべきでしょう。
エルサレムへの道を進んでおられると、その道の途中に、ある人がイエスに言います。
「あなたがお出でになる所なら、どこまでも従って参ります。」この言葉にうそはないのです。本当にそう心から願ったに違いありません。しかし、イエスに従うという事の本質、これから起こる様々な受難、キリストの十字架、そういうことを含めてのイエスに従うという本質を理解はしていませんでした。行く用意があるという表明です。しかしこれに対するイエスの返答は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」安心して生活をする場所も、休む場所もないことを示しています。大変に厳しいみ言葉です。この一人目の男をイエスは召すことはありませんでした。従いますという言葉とは裏腹にその覚悟はできていない者でした。
この度、私は伝道師試験も、合格をいただきました。現在神学生は、私一人です。一人しかいない神学生を落とすのは、かなり勇気がいりますよね。
神学生と言いましたが6日に卒業式を無事に迎え、今はもう神学生ではありません。この神学生という呼び名になかなか慣れませんでした。神学生!このなんだか尊い、イエスにそれこそ従う者のイメージです。私が神学生でいいのだろうか。私のようなものが・・・。とよく思っておりました。そのことを希望が丘で洗礼を受けて以来、私の人生の先輩でもあり、師でもある瀬底ノリ子先生に申し上げると、「あなた、それこそが悪魔の誘惑です。迷ってはいけません」というお答えでした。神学は思った通り、難解です。この私が神学を学ぶなど大それたことだと思っていたからです。
唐澤牧師と同期である日本聖書神学校のある教授にこのことを話したところ、「あなたはとても良い仲間に恵まれていますね」と言ってくださいました。当初は、むしろ、神学校に行きたいという熱意だけが私を突き動かしました。しかし、「どんなことがあってもイエス様あなたに従います。」という熱意だけでは成らないということです。私は、そのような覚悟のない者であることをここで告白いたします。イエスに従うふさわしさのない者です。そのような者を導いてくださった。感謝しかありません。
次に登場する二番目の男に「私に従いなさい」とイエス様の方から言われます。すると「主よ、まず、父を葬りにいかせてください」と答えたのでした。ここでは、この男は、父が死ぬまで家にいさせてほしいという事だとすると、神の国の事柄を先延ばしするという事に等しいことです。しかし、この男の父が亡くなっていたとすると、ユダヤ人にとって、父親を埋葬しないことは、恥ずべき事柄だったという事情がありました。しかしイエスは、このどちらかの答えを男から引き出すまで待つことができませんでした。イエスには時間がありませんでした。そこで「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」そして「しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい」とその男を召されたのです。家族という一番よい関係よりも、さらに良いことである、私に従いなさいとイエス様は言われるのです。
実は、伝道師試験の3日前に、愛犬であるメアリーが死んでしまいました。14年と3か月を共にした犬です。もう少しで、犬を葬りにいかせてください。伝道師試験にはいくことができません。というところでした。食べなくなってから次の日の早朝息を引き取りました。火葬にして骨は骨壺に入れて今もリビングに置いてあります。前日まで生きていました。しかし次の日はもう息をしていませんでした。その現実を受け入れることは辛いことです。しかし、火葬にしたときになぜか悲しみより、よく頑張ったね。おりこうさん。ゆっくり休んで。草原を駆け抜けてほしい。と思いました。現在は、狭いリビングに犬の骨壺をおいて、ダイニングテーブルの下に頭を少し入れて、布団を2枚並べて、長女と夜休んでいます。生きていた時と同じように、「ただいま」「いただきます」「おやすみなさい」「いい子だね。メアリーは」と話しかけています。今までと同じように暮らしています。昨日まで生きて息をしていました。生となんの境界線も引かれてはいません。死は身近なものなんだとつくづく思うのです。私もいつかこうして骨になる。しかし、生きているときと同じように、イエス様が終末の時に天に引き上げてくださる日までここに留まっているのだと思うのです。
イエス様は家族を葬るより優先することがある、それは私に従うことだ。そして、神の国を宣教しなさいと言われます。葬りは家族にとって良いことです。生きている私たちがなすべき良い義務です。しかし、それより大切なことがある。「私に従って、天の国を告げ知らせなさい」と言われます。私と同じ十字架を背負いなさいと言っておられるように思います。弟子としての覚悟を持ちなさい。
ついこの前、みどり幼稚園の卒園生たちがキッズチャーチに礼拝の練習に招かれたときに宮井牧師は次のようにお話しされました。「賛美歌を歌い、礼拝を挙げているあなたたちは、もう立派なイエス様の弟子なのです。」と。そうなのです。私たち一人一人がすでにイエス様の弟子とされた者であることです。本当にこの時も私は恥ずかしい思いがしました。イエス様に従いきれない、この世のものに引っ張られている、全てを捨てて従うなどできない者だと感じていたからです。覚悟などできていない。しかし、そのような私を神は伝道師となるべく道を順序立てて、受洗した2000年から20年の歳月をかけて準備してくださいました。
私ができないと思ったことも、主はなしてくださる。ましてや、ここにお集まりの信徒の方々の一人一人を、誰一人取りこぼすようなことはないのです。主はそのまなざしで、導いてくださる方です。「私に従いなさい」。一番熱い時にそれぞれお一人お一人にイエス様は声をかけてくださったに違いありません。即座に「従います」とお答えしたのが私たちです。従うのにふさわしい者に私たちの力では成ることはできません。しかし主がふさわしい者に作り替えてくださるのです。
教会に招かれて、洗礼を受けて、聖餐をいただき、神に従う者になりなさいと言う声を毎週聞きます。聞くという事は主と出会うという事です。礼拝に招かれている私たち一人一人がキリストの弟子なのです。自分では従えないと思えることも、イエス様が従えるものにしてくださる。
三番目の別の人も「主よ、あなたに従います、しかし、まず家の者たちに別れを告げることを許してください。」と懇願します。イエスはその人に「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と言われます。
耕す行為は、後ろを見ていてはまっすぐに耕すことができません。前へ前へと行くのです。イエス様は十字架への道のりに少しもその歩みを緩めたり、後ろを振り返られることはありませんでした。むしろ自ら進んで行かれました。後ろ髪にひかれて、過ぎ去った日をしみじみと味わうようでは、前には進めないのです。この三番目の男を私たちは笑うことができません。その躊躇する弱い心も、主が取り除いてくださるのです。弱さもすべて主はご存じです。それを知っていて、従いなさいと言ってくださる。主に心から感謝して。高座教会に招いてくださった幸いを感謝いたします。
お祈りします。


