突風を静める

<召天者記念礼拝>
和田一郎牧師 説教要約
2026年5月10日
イザヤ書35章4-10節
マルコによる福音書4章35-41節

Ⅰ. 人生には「突然の嵐」がある

今日は召天者記念礼拝です。愛する人を失うということは、人生の中でも最も大きな「嵐」の一つです。イエス様は「向こう岸に渡ろう」と夕暮れのガリラヤ湖で弟子たちにそう語られました。すると弟子たちは、「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」とあります。弟子たちにも疲れはあったでしょう。群衆に囲まれ、一日中働き、もう休みたいと思っていたかもしれません。夕方ですから、「今日はもうここでいいではないか」と思った弟子もいたでしょう。しかし主は、「向こう岸に渡ろう」と言われました。 向こう岸に渡るとは、人生を前へ進めるということです。私たちも、本当は立ち止まりたい時があります。「今は休んでいたい。」「今年は無理をしたくない。」「できれば、このまま変わらずにいたい。」そんな思いを抱くことがあります。特に、大切な人との別れを経験した後は、心が止まったようになります。時間だけが過ぎ、自分だけが岸辺に取り残されたように感じることもあります。けれども、季節は移り、朝は来て、社会も動き続けています。私たちもまた、重い腰を上げて舟に乗り、向こう岸へ向かわなければならない時があります。弟子たちしたことは「自分の力だけで漕ぎ出した」ことではなく、「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」ということです。人生の新しい一歩は、不安があります。これからどんな風が吹くのか分からない。しかしイエス様は、静かに語られます。「向こう岸へ渡ろう。」その言葉に押し出され、弟子たちは向こう岸へと漕ぎ出していくのです。
弟子たちが湖を渡っている時、「すると、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになった」(37節)とあります。ガリラヤ湖は「湖」と呼ばれますが、実際にはかなり大きく、南北約21km、東西約13km、しかも海抜マイナス約210mと海面より低いのです。さらに湖の周囲には、北側にヘルモン山系、東側にゴラン高原、西側にも丘陵地帯があり、山々に囲まれています。この地形が、強い気流や突風を生み出しやすいのです。弟子たちの中には漁師経験者が多くいました。湖を知り尽くしたベテランたちが、「もうだめだ」と思うほどの嵐が吹いたのです。だからこそ、この話は単なる比喩ではありません。「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言ったように、死の恐怖という非常に切実な出来事として読むことができます。波が舟に打ち込み、舟は水でいっぱいになった。弟子たちは、死の恐怖に包まれました。

Ⅱ. 主は「嵐の中」に共におられる

弟子たちが恐れていた時、イエス様はどこにおられたでしょうか。岸辺ではありません。同じ舟の中におられました。しかも眠っておられました。弟子たちには、「自分たちはこんなに苦しみ、恐れているのに、イエス様は何もしてくれない」と感じられた、ということです。まるでイエス様が、自分たちの苦しみや恐怖に気づいておられないように思えたのです。そのことで弟子たちは大きく動揺しました。弟子たちが本当に恐れたのは、嵐そのものだけではありませんでした。むしろ、「イエス様が共におられるはずなのに、何もしてくださらない」ということでした。「イエス様は私たちを助けてくださらないのか。」そんな思いが弟子たちの心に広がっていったのです。だから弟子たちは、「イエス様を信じて従ってきたのは無駄だったのではないか」とさえ感じたのでしょう。主に従ったから安心なのではなく、かえって苦しみの中に置かれているように思えたのです。それは単なる不安ではありません。自分を支えていたはずの信仰そのものが揺らいでしまう、ということです。だからこそ、この動揺はとても深いのです。まるで舟そのものが沈みそうになるような、絶望に近い苦しみです。

Ⅲ. 主は「恐れ」に向かって語られる

39節「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」それは私たちへの言葉でもあります。「あなたは一人ではない。わたしが共にいる。だから恐れなくてよい」と語っておられるのです。
弟子たちは、イエス様に従って舟を漕ぎ出しました。それは、自分の力で人生を切り開くということではありませんでした。イエス様に導かれて歩み始めた、ということです。
そしてイエス様は、弟子たちを神の国へと導いておられました。今はまだ見えなくても、神のご支配はすでに始まっている。やがて必ず完成する。その希望の中を歩みなさい、と主は語っておられるのです。ですから、信仰をもって生きるとは、嵐の中でも、「主が共にいてくださる」と信じて歩むことなのです。
嵐を静められた後、弟子たちは「非常に恐れた」とあります。そしてこう言いました。
「いったい、この方はどなたなのだろう。」
普通なら、「助けてくださってありがとうございます」と言ってもよさそうです。ところが弟子たちは、かえって深い恐れを感じたのです。それは、嵐への恐れとは違う種類の恐れでした。弟子たちは、それまでイエス様のことを分かっているつもりでした。けれども今、自分たちの想像をはるかに超えたお方に出会ったのです。
弟子たちは、イエス様に「一緒に怖がってほしい」「一緒に舟の水をかき出してほしい」と思っていたのかもしれません。しかしイエス様がなさったのは、風を叱り、湖を静めることでした。つまりイエス様は、自然さえも従わせる権威を持つお方として、ご自分を現されたのです。その時弟子たちは、「この方はいったい誰なのだろう」と恐れました。この問いこそ信仰の歩みの中でとても大切です。
信仰が深まるというのは「神様のことが全部分かる」ということではありません。むしろ、「神様は自分の思っていた以上に大きなお方だ」と気づかされることです。私たちは時々、神様を自分の理解の範囲に収めようとします。「神様はこういう方だ」と整理して安心したくなるのです。しかし、本当に生きておられるイエス様に出会う時、私たちはむしろ驚かされます。「主はこんなにも大きなお方だったのか。」 そうして、イエス様との本当の交わりが始まっていきます。この経験は、イエス様に従って歩もうとする人に与えられるものです。嵐の中でこそ、私たちは主と深く出会っていくのです。

Ⅳ. 「向こう岸へ渡ろう」

この物語は、イエス様の「向こう岸へ渡ろう」という言葉から始まりました。弟子たちは、その意味を十分に理解していたわけではありません。ただイエス様の言葉に促されて、舟を漕ぎ出しました。しかし、その旅の途中で嵐に出会いました。
私たちもまた、それぞれの人生という舟に乗って、日々を生きています。穏やかな日もあります。しかし突然の突風のような出来事に出会います。病気、老い、別れ、不安、孤独、そして死・・・。私たちは、その嵐の中で立ちすくみ、「もう進めない」と思うことがあります。特に、大切な人を失った後は、人生の時間が止まったように感じます。「あの人がいない世界を、これからどう生きればいいのだろう。」そんな思いになることがあります。けれどもイエス様は、なお語られます。「向こう岸へ渡ろう。」
それは「とにかく、がんばれ」ということではありません。そうではなく、「あなたは一人ではない。わたしが共に舟に乗っている。だから歩みを止めなくてよい」という招きなのです。
召天者記念礼拝は、ただ過去を振り返る日ではありません。先に天に召された方々の人生を通して、私たち自身が「今をどう生きるか」を問われる日です。人生は限りがあります。だからこそ、一日一日が尊いのです。私たちは、いつまでも同じ場所に留まることはできません。時代も社会も、家族も、自分自身も変わっていきます。本当は、「今は休んでいたい」「できればこのままでいたい」と思うことがあります。しかし、主は時に、重い腰を上げるように私たちを促されます。新しい一歩を踏み出す。もう一度、人と関わってみる。礼拝へ足を運ぶ。感謝を言葉にする。愛を惜しまない。希望を捨てずに生きる。それが、「向こう岸へ渡る」ということなのかもしれません。
そして大切なのは、弟子たちが「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」ということです。
今日、私たちは先に召された方々を覚えます。 その人生には、それぞれに喜びも涙もありました。順風満帆の日ばかりではなく、人生の嵐もあったことでしょう。しかしその歩みを最後まで支えてくださったのは、イエス・キリストでした。主イエスこそ、私たちの望みです。若い日も、老いの日も。健康な時も、病の中でも。喜びの日も、別れの日も。「なお主こそ、わが望み」と告白しながら、私たちは歩みます。主イエスこそ、死を越えてなお変わることのない、私たちの望みなのです。私たちもまた、主を舟にお迎えしながら、与えられた今日という日を、大切に歩んでまいりましょう。
お祈りをいたします。