私たちは黙らない

潮田健治牧師 説教要約
使徒言行録2章1~13節
2026年5月24日

Ⅰ.五旬祭の日が来て

 お祭の日が来たのです。こういう大きい祭の日には、世界各地に散らされていたユダヤ人がエルサレムにやってきました。この日「120人ほどのきょうだいたち」(1章15節)たくさんの人が、教会の姿を目撃することになったのです。
 さがみ野教会(今日はあえてそのように言わせていただきます)さがみ野教会の皆さんは、今日、50周年の記念の時を迎えています。私は、そのうちの19年間にかかわることができたのですが、ペンテコステのことで言うと何と言っても「ペンテコステ運動会」です。神の言葉が世界に開かれたのであれば、万国旗だ。万国旗と言えば、運動会だろうということになって、「ペンテコステ運動会」を計画しました。当時、家を借りていた大家さんのご子息は栗原幼稚園の園長でしたので、教会の近くにある幼稚園園庭をお借りすることができ、運動会の用具もお借りして、子どもたちに「ペンテコステ運動会するよ」と案内しました。ペンテコステなど何も知らなくても50人くらいの子どもたちが集まったでしょうか。ペンテコステは楽しい祭なのだ、という経験を作ってきたことを思い起こします。

Ⅱ.神の偉大な業を語る私たち

 そういうこともあったなあ、ということになるのでしょうか。果たしてあれもこれも遠い想い出になってしまった…のでしょうか。
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。」周りにいた人は言います。「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
 そこに、世界各地からやってきた人がいたのですが、皆が聞いたのは、神がイエス・キリストを通して行われた救いの計画と、その成就(イエス・キリストの生涯、そして十字架と復活)のことでした。しかも彼らは「皆ガリラヤの人」だった。多少なりとも、軽蔑の言葉がここにあります。当時は、ガリラヤはそのように低く見られていました。あのガリラヤから来た、そういう人がなぜ、こういうことを話せるのか。今、私たちは「さがみ野チャペル」の人と呼ばれますが、私たちは、確かにこの地で、当初からずっと、50年にわたり「神の偉大な業」を語ってきたのです。そのことは昔の思い出なんかではない。今も、これからも、ずっと私たちは語り続けるのです。私たちは黙ることは、しないのです。
 「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。」とか、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と書かれていますが、ここでのキーワードは明白です。「聖霊に満たされ」「霊が語らせるままに」ということです。ここに起こったことを私たちの言葉に置き換えると、つまり、圧倒的な力がそこに働いた、ということになるでしょうか。今、私たちは黙らないと言いましたが、なにくそと気合を入れてするのではありません。人の思いや願望、人の意志とか計画とかではなく、上からの強い力(聖霊)によって、語りだしたのです。だから黙らないのです。人に届く言葉で、皆が「神の偉大な業」を語ったのです。語ったのは「神の偉大な業」であって、自分のことを話したのではないのです。

Ⅲ.今、ここで起こる出来事

 聖霊によって語る、ということが、ペンテコステという祭の日に起こりました。私たちは、そのことを昔の話にしてしまっていないだろうか。昔は、そういう不思議があったのだろうけど、まさか今、そういうことが起こるとは、思っていない。自分とかかわりがあると、深く考えていない。考えようとしていないのではないでしょうか。
 ペンテコステの出来事は、火とか、風とか、そういう象徴を使いながら、いずれにしても上からの圧倒的な力で、弟子たちが通りに/町に、出ていくことを伝えています。それは、2000年前に起こったことであって、一度限りのものであった、ということではありませんでした。そこで生まれた教会がやがて時代から消えていく、ということもありましたが、しかし、今も、教会において、洗礼を受ける人が続き、信仰を告白する人が生まれ、こうして次の世代を産み出す、バトンを繋ぎ続けているというようにして、この聖書が証言する出来事は、今も出来事として起こり続けているのです。
 神が私に何をしてくださったか。御子イエス・キリストを通して、十字架で何をしてくださったか、私たちは、今、語り続けているではありませんか。そういう者として、私がここに居るではありませんか。私は/教会は、今も「神の偉大な業」を語っている。それまで一度も「神さま」と言ったことがない人が、「神さま」と呼びかけて、祈るのです。イエスは私の主であると、キリスト者になる時、信仰告白をする。信仰の言葉を話す者として、皆の前に立ちます。いったい何が、その人に起こったかと思いますか。すごい奇跡だと思いませんか? この使徒言行録に書かれていることは、私たちの物語でもあるのです。

Ⅳ.伝わった経験

 私自身のことを言えば、キリスト教とはまったく縁がなかった地域に住んでいました。家は、神社の氏子であり、お寺とは「講中」という関係がありました。また、今はどの地域にも自治会がありますが、私の家は昔の土地の人のつながりでつくる「組」の一員でもあります。
 そういう者が、ある時、初めて希望が丘教会に行き、1年後にイエスを主と信じて洗礼を受けました。ある時、私はアメリカのカンバーランド長老教会の誕生の場所、バースプレイスに行きました。車で連れて行ってくれた牧師がCDを流してくれたのですが、”Country roads, take me home to the place I belong…” 私の原点というべき、私がいるべき場所に、私を連れて行ってくれ、という歌でした。カンバーランド長老教会の誕生の場所に行こうとするときに、その歌が流れていたことは、非常に印象深い経験でした。そして、その土地に立ったとき、ここから始まった祈りが、200年経って私のところにまで及んだのだと思ったら、もう、この歌、忘れられない「心の歌」になりました。
 そのことを現地の教会で証しする時がありました。自分は日本で日本的な因習の中に育ち、そういうところが当たり前という、そこから引き出されて、キリスト者になった。バースプレイスでなされた祈りが、海を越え、200年経って、私を捕えたのだと。そうしたら、カンバーランド長老教会のプランニングカレンダーの編集者がそこに居て、ぜひその話を書いてくれと。40年も前の話ですが。
 「私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とありますが、私は信仰に導かれた話をつたない言葉でたどたどしく語った証であっても、それがアメリカの人に分かった、というのです。
 教会は、キリスト教に対する、評論をするところではありません。私は神をどう考えるとか、イエス・キリストをどう説明するかとか、教会はそういう所ではない。神が、私に、何をしてくださったのか。神の偉大なわざ。それを話し出すところなのです。神が、私に何をしてくださったか。その神の偉大な業を私たちが語り出すなら、それは人に伝わるのです。私たちは今日も礼拝から出て行きますが、神の偉大な御業を語り続けて2000年、その最先端に立っています。座間にあってはこの地で、50年の歴史の最先端に立っている。

Ⅴ.教会に生きる

 しかしある人は、別に礼拝に集まらないでも、家だって聖書は読める、信仰生活くらい出来る、と思っているかもしれません。また、ある人は、聖霊が直接わたしに語りかけること、心の内が聖霊に満たされ恵みに溢れることが大事で、教会で交わりだ、伝道だ、献金だと言っている、そんなことには関心がないし、そんなことに束縛されたくない、と言う人もいるかもしれません。
 しかし聖霊は、教会という仲間を作ることに、一番の関心を持っていたと、この使徒言行録は語り、この後、語り続けて行きます。確かに今、私は、一人一人の中に神が何をしてくださったかが大事だと言いました。しかし、聖霊は、その土地に、その場所に、教会、仲間、共同体を作り、神の偉大な業を語る言葉を、世界に開いて行くのです。私の隣の人に、そこが小さな世界ですが、そこに向かって、神が私たちに何をしてくださったか、その言葉を共同で、開いて行くのです。そういうものとして、教会は始まったのです。
 この後、2章41節では、そうした聖霊の働きかけによって洗礼を受けた3000人ほどが教会に加わります。「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言うことはできません。」とありますが、3000人というのは、その「誰も」を強調しているのでしょう。私たちは一人一人、同じように聖霊に動かされた物語を必ず持っているのです。私たちは、その神の業を語り出す者です。
 神は、私たちを動かして、今、ここで礼拝者としてくださいました。「いや、今日は自分が来たいから来たのだ」それもいいでしょう。では、「来たい」という気持ちは、どこから起こったのでしょうか。聖霊は、私たちの口から、神の偉大な業について語り出すのを待っています。

Ⅵ.神が私にしてくれたことを

 ペンテコステの時に合わせて引用される「バベルの塔」の話があります。素晴らしい「技術」を得た人間はすっかりいい気になって、「さあ、我々は町と塔を築こう。塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう」(創世記11章4節)と、自分たちを主語にし、自分たちを有名にする、傲慢な野望を抱いたのです。しかし、その傲慢な心があるところでは、同じ言葉を話していても結局、人はバラバラになるしかなかったのでした。
 私たちは、しかし、私たちを導かれる神を主語にして話し出すのです。神さまは/神さまが、…という言葉で、自分になされた神の偉大な御業を語り続けるのです。そういう者として、集められました。
 集められ、そして今、ここから立ち上がる私たちは、これからも黙らない。