霊の賜物
<ペンテコステ礼拝11時>
和田一郎牧師 説教要約
2026年5月24日
コリントの信徒への手紙一 12章4–13節
今日は、教会の誕生日とも呼ばれるペンテコステです。聖霊が弟子たちに注がれ、教会がこの世界へと遣わされていった日です。ところで聖霊とは何でしょうか。「風のようなもの」「炎のようなもの」と聖書には書かれていますが、実際には目に見えません。だから私たちは時々「聖霊」という言葉を、どこか特別で、自分とは関係のないもののように感じてしまいます。けれども今日の聖書箇所でパウロは、聖霊は私たちの日常の中で働かれるのだ、と語っています。それも、一部の特別な人だけではありません。教会に集う一人ひとりに、神は賜物を与えておられるのだと言うのです。今日は、この「霊の賜物」について、共に考えていきましょう。
Ⅰ. 賜物はみな違う
パウロはこう語ります。4節「恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」
教会には、本当にさまざまな人がいます。人前で話すことが得意な人もいれば、静かに人を支えることが得意な人もいます。歌う人、祈る人、掃除をする人、料理を作る人、子どもと遊ぶ人、高齢者の話を丁寧に聞く人。ある人は力強く前に進みます。またある人は、人の涙に気づく優しさを持っています。けれども私たちは、つい比べてしまいます。「あの人のようにはできない」「自分には何もない」そう思ってしまうのです。しかしパウロは言います。賜物はいろいろでよいのだ、と。花畑には、一種類の花だけではなく、さまざまな花があります。背の高い花も、小さな花もあります。けれども、それぞれが違うからこそ美しいのです。
ある話があります。ある人が庭の芝生を大切に手入れしていました。ところが、ある時からタンポポが生えるようになります。見つけるたびに抜いても、次々と生えてきて追いつきません。さまざまな方法を試しても、うまくいきませんでした。そこで、あるガーデニングの専門家に手紙を書き、良い対策がないか尋ねました。すると返ってきた答えは意外なものでした。「タンポポを好きになってみてはどうですか?」と書かれていました。その手紙には、タンポポの種類や特徴も丁寧に書かれていました。その人は、半信半疑でタンポポをマジマジと観察して、その種類を知りました。すぐに何かが変わるわけではありません。それでも毎日向き合い続けるうちに、タンポポが少しずつ違って見えてきました。タンポポが増えると他の知らない草花が生えても気にならなくなりました。その庭はタンポポとさまざまな草花に満ちた、多種多様な愛らしい庭へと変わっていったのです。
教会も同じです。神は、人を同じ形には造られませんでした。もし全員が説教者だったら、誰が食事を作るのでしょう。もし全員が前に立つ人だったら、誰が静かに聞くのでしょう。もし全員が強い人だったら、誰が弱い人の痛みに寄り添えるのでしょう。神様は、一人ひとりを違う存在として造り、それぞれに賜物を与えてくださいました。
Ⅱ. 賜物は「自分のため」ではない
しかし、ここで大切なのは、賜物は「自分を誇るため」のものではない、ということです。パウロはこう言います。7節「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」 ここが大切なことなのですが、賜物はその人の長所を意味しているのではありません。その人が「優れている」という証明ではありません。
むしろ「誰かを生かすため」に与えられているのです。手は、自分のためだけに存在しているのではありません。目も、耳も、足も、体全体を生かすためにあります。教会も同じです。ある人の優しい一言に救われる人がいます。ある人の祈りによって、支えられる人がいます。ある人の笑顔によって、教会に来る勇気を持つ人がいます。
目立たない働きかもしれません。けれども神は、その働きを喜んでおられます。ペンテコステの日、聖霊を受けた弟子たちは、急に偉くなったわけではありませんでした。彼らは相変わらず、不完全な人間でした。しかし、恐れて閉じこもっていた人々が、外へ出ていったのです。「自分のため」ではなく、「神の愛を伝えるため」に変えられていったのです。聖霊に満たされるとは、人が操り人形のように支配されるのではありません。人を愛へと向かわせる神の力なのです。人間の知恵で、神の愛を知識として知ることはできるでしょう。しかし、愛を知っていても、それを人のため使わなければ真価を発揮しません。聖霊が働いている人は、その賜物を自分のためではなく、他人に与えようとするのです。
Ⅲ. 福音の核心━━異質の他者を受け入れる
パウロは、コリントの教会に向かって、賜物は違っていても、「同じ霊」であり、「同じ主」であり、「同じ神」であると語りました(4–6節)。教会には、実にさまざまな人がいます。若い人もいれば高齢者もいる。活発な人もいれば静かな人もいる。すぐ行動する人もいれば、じっくり考える人もいる。人生経験も、価値観も、得意なことも違う。本来なら、人間は「自分と似た人」とだけ集まりたがります。
違う人を避け、理解できない相手を遠ざけてしまう。それが人間の自然な姿です。しかし福音は、その壁を越えさせます。「福音」とは元の意味では「良い知らせ」という意味です。誰にとって良い知らせなのか?それは、救いは、裕福なユダヤ人の成人男性だけだと思われていた社会にあって、ユダヤ人以外の男性も女性も、大人も子どもも、どんな国籍の異邦人とっても良い知らせでした。つまりユダヤ人にとって異質な他者も、神の家族に招かれた、それが「福音」良い知らせです。「同じ性格」でも「同じ考え方」でもなく、「同じ聖霊」によって神の家族に招かれる、それが福音です。
パウロは12章13節でこう言います。「私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。」とある通りです。当時の世界では、民族も、身分も、文化も違う人々が一緒になるなど、あり得ないことでした。けれども聖霊は、その「違い」を消し去るのではなく、違いを持ったまま、一つに結び合わせたのです。これは単なる「仲良くしましょう」という道徳ではありません。もっと深い出来事です。異質の他者を受け入れる。これが「福音の核心」です。キリストは、十字架によって、神と人との断絶を和解させただけでなく、人と人との間にある壁をも打ち壊されました。キリストの愛によって打ち壊された。ですからキリスト者の繋がりは「Like ライク」ではなく「Love ラブ」の関係です。教会とは、「似た者の集まり」ではなく、「本来なら一緒になれない者たち」が、キリストによって一つにされる場所なのです。そしてそれは、現代社会にとっても大きな福音です。社会は時として、「同じ意見の人」「価値観の近い人」「気の合う人」だけで小さく分断されていきます。しかし聖霊は、違いを恐れるのではなく、違いの中に神の豊かさを見るように導きます。ですから「異質な他者を受け入れる」とは、単なる寛容さではありません。「この人にも聖霊が働いておられる」と信じる信仰です。
自分には理解しきれない相手であっても、主はその人にも賜物を与えておられる。その人がいることで、キリストの体はより豊かになる。
これこそ教会にとっての良い知らせ、福音なのです。
Ⅳ. 一つの体として生きる
最後に、パウロはこう語ります。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。」
教会は、一つの体です。年齢も違う。性格も違う。考え方も違う。歩んできた人生も違う。けれども、聖霊によって私たちは結ばれています。ペンテコステの日、世界中から来ていた人々が、それぞれ自分の国の言葉で神の御業を聞きました。それは、「違いをなくす」ということではありませんでした。違うままで、神につながる。違うままで、一つにされる。それが聖霊の働きです。
私たちには、神から与えられた賜物があります。神は決して無駄な賜物を与えられません。私たちの存在を通して、誰かが支えられています。私たちの祈りを通して、教会は支えられています。その人の優しさを通して、神の愛が届けられています。ペンテコステの聖霊は、今も吹いています。「自分には何もない」という心を吹き払い、「共に生きよう」という神の命を私たちに与えてくださるのです。違いを超えて、一つの体として。神の家族として。共に歩む教会でありたいと思います。
お祈りをいたします。


