イエスの召しと派遣
和田一郎牧師 説教要約
2026年7月26日
イザヤ書6章1-9節
マルコによる福音書6章7-13節
Ⅰ. 二人ずつ組にして
これまで弟子たちは、イエス様の後ろについて歩き、その教えを聞き、数々の奇跡を見て学んできました。しかし今日、彼らは初めてイエス様のもとを離れ、自分たちだけで村々へ遣わされます。いわば、十二弟子の「独り立ち」の時です。彼らはいずれそれぞれの宣教地へ遣わされていくことになるのです。しかし、それはイエス様から独立することではありません。イエス様から託された使命を担い、自ら一歩を踏み出す時でした。イエス様は彼らを「二人ずつ組にして」遣わされました。それは互いに助け合うため、そして福音は個人の考えではなく、教会の証しだからです。弟子たちに「汚れた霊を追い出す権能」を授けられました。弟子たちに特別な力があったのではありません。主が権威を与えてくださったからです。私たちも同じです。神は強い人ではなく、弱い者をご自身の働きのために用いてくださるのです。
Ⅱ. イエス様の召しと派遣
続いてイエス様は、旅には杖一本のほか何も持って行ってはならない。パンも、袋も、金も持って行ってはならないと命じられました。
弟子たちにとって、この命令は不安だったことでしょう。せめて食べ物くらいは持たせてほしいと、私たちなら、そう思います。
今日の旧約聖書のイザヤもまた最初は「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者 私は汚れた唇の民の中に住んでいる者」(イザヤ6:5)と叫びました。神の聖さの前に立たされた時、自分の罪深さと無力さを知らされたのです。しかし神は、そのようなイザヤを退けられませんでした。神の恵みによって赦され、清められたその時、イザヤは初めて主の声を聞きます。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか」そして彼は、「ここに私がおります。私を遣わしてください」(イザヤ6:8)と応えました。
ここで大切なのは、イザヤは強い人だから遣わされたのではないということです。自分の弱さを知った者が、神の恵みだけを頼りに遣わされたのです。十二弟子たちも遣わされますが、「十分に準備ができたから」ではありません。むしろ「パンも持つな。袋も持つな。帯の中に金も持つな」と言われます。何も持たない者として遣わされるのです。それは、自分の力や経験や財産に頼るためではなく、神だけを信頼して歩むことを学ぶためでした。
信仰の成熟とは、自分が強くなることではありません。神に頼ることを覚えることです。歳月を重ねるほど、自分の限界を知るということがあるのではないでしょうか。主なる神はイザヤに告げたとおりです。「よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない」(イザヤ6:9)自分の知恵、自分の理解を超えて、それ以上に神の真実を知っていく。それが信仰者の成長なのです。
Ⅲ. 居心地の良さを求めるのではなく
イエス様はさらに「どこかの家に入ったら、その土地を去るまでは、その家にとどまりなさい」と言われました。遣わされた者の生き方そのものが教えられています。ある家に迎えられても、もっと裕福で、もっと居心地の良い家から招かれれば、移ることもできたでしょう。しかし、イエス様は、人々から歓迎される町だけで宣教を続けられたのではありません。故郷ナザレでは拒まれ、誤解され、それでもなお神から与えられた使命を歩み続けられました。居心地の良い場所を選ばれることはありませんでした。神の召しは、快適さによって決まるのではありません。使命によって決まるのです。
そして不思議なことに、神は私たちを遣わされたその場所で、人との出会いを備え、必要な恵みを備えてくださいます。前の箇所では、「何も持たずに出かけなさい」と命じられました。それは神への信頼でした。そして「その家にとどまりなさい」と言われます。それは、人との関係に誠実でありなさいということです。神に信頼し、人に誠実に生きる。この二つが弟子たちに教えられた宣教者の姿だったのです。
Ⅳ. 善き力に囲まれ遣わされる
しかし、すべての人が福音を受け入れるわけではありません。イエス様は、「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(マルコ6:11)と言われました。これは、受け入れない人々を憎み、見捨てなさいということではありません。福音を語った結果まで、すべて自分で背負い込まなくてもよい、ということです。弟子たちは語るべきことを忠実に語ります。しかし、その言葉を受け入れるかどうか、また人の心がいつ、どのように変えられるかは、神に委ねなければなりません。人の心を変えることができるのは、伝道者の説得力ではなく、聖霊の働きだからです。
弟子たちは伝道は、失敗しないと約束されて遣わされたのではありません。拒まれることもあると、あらかじめ知らされて遣わされました。それでも、イエス様から与えられた使命を果たすために出かけて行ったのです。そして12節には、「十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた」とあります。さらに13節には、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした。」とあります。
ここで語られている「悪霊を追い出す」「病人を癒す」という働きは、弟子たちが不思議な力を見せ、自分たちの偉大さを証明したということではありません。苦しみや悲しみ、病や恐れに捕らえられていた人々が、神の支配の中へと戻されていったということです。人を孤独にし、神から引き離そうとする力から解放され、神の慰めへ迎え入れられていったのです。
今日においても、伝道とは、ただキリスト教について説明することではありません。悲しみの中にいる人が支えられ、勇気を与えられ、神が共におられると、福音が告げられる時、人はもう一度立ち上がる力を与えられます。
そのようなことが、私たちの語る言葉や祈りを通して起こるのです。それは驚くべきことです。伝道者自身が、自分のような罪深く、弱く、貧しい者の語る言葉によって、人が慰められ、生きる希望を見いだすことがある。自分のささやかな祈りによって、人が神の愛に気づくことがある。それはいったい、どういうことなのでしょうか。それは、語る者に特別な力があるからではありません。遣わされた者を通して、主なる神様ご自身が働いてくださるからです。
そのことを思う時、ドイツの牧師ボンヘッファーのことを思います。彼はヒトラーとナチスが人種差別と暴力によって人々を支配し教会が国家の言いなりになることに抵抗した人です。
獄中から婚約者に宛てた手紙の中に詩を添えました。それが、後に讃美歌として歌われるようになった「善き力にわれ囲まれ」です。この詩が書かれたのは、死を覚悟しなければならない状況下でしたが、それでも自分が神の「善き力」に囲まれていると歌ったのです。
このボンヘッファーの姿は、十二弟子の姿とも重なります。弟子たちは、パンも、袋も、お金も持たずに出発しました。何が起こるか分からず、受け入れられる保証もありませんでした。それでも彼らは出かけました。なぜなら、主イエスが遣わされたからです。彼らは何も持っていませんでした。しかし、何も与えられていなかったのではありません。主から権能を与えられ、二人ずつの仲間を与えられ、神の守りの中へ遣わされていたのです。
私たちは、礼拝の終わりに祝福を受け、それぞれの生活の場へ遣わされます。私たちが派遣される時、必要なものがすべて手元にそろっているとは限りません。十分な自信もなく、力もなくても、主が遣わされた者は、一人で歩くのではありません。私たちを遣わされる主が、先立っていてくださいます。神の善き力に囲まれて歩むことができるのです。
お祈りいたします。


