信仰によって、共に生きよう
宮井岳彦副牧師 説教要約
2026年7月19日
ハバクク書2章1-4節
ローマの信徒への手紙1章16,17節
Ⅰ.祈りを巡るひとつの話
7月11日に「祈りの基本セミナー」というものが開催されました。準備が整ったらホームページに音声を載せてくださるということでしたので、ぜひお聞き頂ければと思っています。セミナーのときに祈りを巡るエピソードをお話ししました。その内の一つをここで改めてご紹介します。
ある若いご婦人が夫を亡くしてしまった。彼女は大変ショックを受けて、もはや自分には祈ることができないと思うに至りました。彼女のところへ、プロテスタント教会の牧師がやって来ました。彼女は辛い胸の内を打ち明け、自分にはもう祈れないと訴えました。牧師は、祈れない気持ちはよく分かりますよと優しく言ってくれました。
その後、ハンス・ウルス・フォン・バルタザールというイエズス会の司祭が彼女のところへ来た。彼女は同じように訴えました。私の愛する夫を殺してしまうような、そんなに神が残酷な方であるならば私はもう祈ることはできない。するとバルタザールは、たいへん激しくやり返した。神があなたを捜しておられる。そのように神が求めておられるのに、そんなばかばかしい考えを起こして祈らないなどと言うのか。そして一緒に主の祈りを祈りました。結局、彼女はやがてカトリックになったそうです。
この話を紹介してくださったボーレンという先生は、最後にこのように書いています。「不信仰というのは、別に私が不信仰にずっととどまる必要があるほど値打ちがあるわけではないのです。」
私はこの話がとても好きです。ただ、とても厳しい話です。バルタザールは「祈りたくない」という思いをそのまま放置しない。祈りへと引っ張り出します。しかし、そのようなことを言われても、とも思う。「祈りが大切だなんてことは百も承知している。それでも私は今祈れないのだ。」時に私たちにとっては「祈る」ということや「信じる」ということ自体があまりにまぶしすぎてしまうことがあるのです。
Ⅱ.「神の義」が憎い!
17節に「神の義」と書いてあります。これもまたまぶしい言葉です。この手紙で特別に大切な言葉のひとつです。しかし「神の義」と言われると、もう「祈り」以上にまぶしい。自分の実際の信仰生活からかけ離れた話のようにさえ思ってしまう。
今から500年前にマルティン・ルターという人がいました。1517年10月31日という日付がルターの改革運動の記念日として覚えられています。その前は何をしていたのか?ルターは修道士として日夜修練に没頭していました。早朝から夜まで働き、また祈りをしていた。完璧なキリスト者、完全無欠な修道士になるために。
しかしまじめに取り組めば取り組むほど、ルターの内的葛藤は大きくなるばかりでした。後年、ルターは若い日の心境をこのように言っています。「いかに欠点のない修道士として生きていたにしても、私は、神の前ではまったく不安な良心をもった罪人であると感じ、私の償いをもって神が満足されるという確信をもつことができなかった。」ルターを指導していた先生からは「キリストに注目しなさい」と言われたが、ルターは完全無欠な修道士として生きる姿に取り憑かれて、そのことで頭がいっぱいでした。そして、遂に彼は言います。「私は罪人を罰する神の義を愛さなかった。いや、憎んでさえいた。」
ルターの話をここでご紹介した理由は、きっとお分かりになると思います。私たちとルターと、よく似た心持ちではないかと思うのです。このままの自分じゃダメだ。もっと信仰深くなって、もっとちゃんと祈らなくちゃいけない。もっとがんばって働かなくちゃいけない。そうやって自分を否定してかかる。先ほどのバルタザールの言葉を誤解すると、たちまち祈りは義務になります。義務としての祈り、するべきお勤めとしての祈りは、辛い。そんな辛い思いをしているところで「神の義」などという言葉を目にしたら、ルターでなくても怒りがこみ上げてくるかもしれない。
Ⅲ. 神の義とは何か?
「神の義」とは一体何でしょう?ルカが伝えている主イエスの譬え話を手掛かりに考えます。ルカによる福音書第18章9節以下です。
二人の人が登場しています。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人でした。分かりやすくするために、ファリサイ派の人を「正しい人」、徴税人を「悪人」と言い換えて読んでいきたいと思います。(少なくとも、主イエスから最初にこの話を聞いた人たちはそう感じたはずです。)
正しい人と悪人がそれぞれに神殿(つまり、私たちで言えば教会)で祈りました。正しい人は、感謝の祈りをしています。私がこんなにちゃんと生きられて、まともにやることができてありがとうございます。ずいぶん鼻持ちならないイヤなやつという感じを受けてしまいますが、実際ファリサイ派の人は口先だけではなく生き方もちゃんとしていましたし、民衆からも尊敬されていました。彼自身が言うとおり、正しい人でした。
ところがもう一人いました。徴税人です。反社会的な悪人です。彼はきっと神殿の隅っこでうずくまるようにしていたのでしょう。彼は祈りました。「神さま、罪人の私を憐れんでください。」主イエスはおっしゃいます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(ルカ18:18)。
神さまは悪人を義となさいました。この人は良い事なんて何もしていません。社会で人に迷惑をかけてきました。誰もが白い目で見るような人です。悪人です。この神殿でもただうずくまって祈っただけです。義とされたのはそんな悪人です。彼は神に義とされて家路につきました。神が共にこの人の家へ向かってくださいました。
ところがあの正しい人はそうではありませんでした。11節に「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します」と書いてあります。ここでは「心の中でこのように祈った」と描写されています。もっと直訳すると、「彼は彼自身に向かって立って祈った」と書いてあります。単に心の中で黙祷したというよりも、彼は身も心も自分にしか向いていなかったのです。神に向かって祈っているようでありながら、実は自分に向かって独り言を言っているだけでした。自分で自分に満足している。それは祈りではない。
この人は義とされて家路につくことはできなかった。独りぼっちです。神は共に歩いておられない。ただし、神がこの人を捨てたのではないのです。この人が神を捨てたのです。
まじめにがんばっていたルターも同じだったのかもしれません。「完全無欠な修道士」に取り憑かれ、そうではない自分を許せなかった。最後はもう「神の義」を憎むしかありませんでした。私たちも似たようなものを内面化しているのかもしれません。ちゃんとできない私には価値がないとか、失敗ばかり犯してしまう私なんて必要ないとか、役に立たず迷惑ばかりかける私なんていない方が良いとか。
しかし、「神の義」は、ダメな私を罰し、良い子の私にご褒美をくれるというものではないのです。神の義は、罪深い私を救おうとする力ある福音のことです。
Ⅳ. 福音はあなたを救う神の力
「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」(ローマ1:16)。
福音は神の力だ、と言っています。何をしようとしている「神の力」なのかと言えば、それは、例え誰であっても「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」です。神がその力を振るってなさったのは、私たちを救うということです。私たちを滅ぼしたり、罰したりするために力を振るったのではない。
先ほどの主イエスの譬え話の悪人は、顔も上げられずにただ「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈っただけです。この人は自分に向かって独り言を言ったのではない。神に向かって「憐れんでください」と願いました。自分ではなくただ神に向かうこと、それが「信じる」ということではないでしょうか。
「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(17節)。
「正しい者は信仰によって生きる」というのは、まさに主イエスの譬えの悪人に起きたことです。神様、罪人の私を憐れんでください。馬鹿でケチでつまらない罪人の私を。こんな私を、あなたに明け渡します。主よ、憐れんでください。完全無欠な信仰者になることが神の求める正しさではない。完全な自分や不完全な自分を気にかけず、ただ神に向かう者を、神は「正しい者」としてくださるのです。
17節の「真実により信仰へと啓示された」というのは、とても面白い表現です。ここに出てくる「真実」と「信仰」は、原文では同じ単語です。人間の場合には「信仰」と翻訳し、キリストの場合には「真実」と翻訳します。ここでは「真実により信仰へと」と翻訳されています。つまり「キリストの真実により私たちの信仰へと」ということになる。
キリストの真実の内に、私たち罪人を救ってくださる神の義が表されました。キリストの福音、私たちを救うためのキリストの福音というキリストご自身の真実が私たちの信仰を呼び覚ましてくださいます。「主よ、罪人の私を憐れんでください」という祈りを、私たちの内にも生み出してくださる。
福音は、あなたを必ず救う神の力です。今日、キリストはあなたを義とし、家路につかせて下さいます。


