尊厳の擁護
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書5章27~32節
2026年8⽉2⽇
Ⅰ.姦淫と離縁
主イエスは言われます。「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」今この言葉をお聞きになって、どう思われたでしょうか?数ある主イエスのお言葉の中でも、群を抜いて厳しい言葉です。しかも、更に続けて言われます。「右の目があなたをつまずかさえるなら、えぐり出して捨てなさい。」そう言われてしまっては、右の目だけでは済みません。左目だって。いや、耳も残らないでしょうし、手も足も、それどころか全身の一体どこを捨てないで済むのでしょうか?
私がまだ十代の頃であったと思いますが、新聞にこのような詩を見つけました。
姦淫を 今日十度せり 沈鬱に町を歩けば マタイ伝 5 章
青年であった私の心深くに食い込む言葉でした。新聞を切り抜いて、しばらく日記の中に挟んでおいた記憶があります。私にとっては今でも忘れることのできない言葉です。
あるいは、今日の主イエスのお言葉を聞いてまったく逆の反応をする、ということもあるかもしれません。このような言葉は非現実的だ。実際の人間を知らない抽象的な言葉だ。世間から見たら「浮気だ」とか「不倫だ」とか言われたとしても、当人にしたらたまたま出会う順番を間違えただけで、そちらの方が本気だということだっていくらでもある。そういう人間の現実を無視した理想論にすぎない。
主イエスは「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯した」とおっしゃっています。ここで主がおっしゃっているのは、心の中のことです。実際に婚姻外の関係を持ったとか、そのために動き始めたとか、という話ではありません。ただ心の中でのこと、目だけの話です。それなのに「すでに姦淫を犯した」とまで言われてしまうと、もう一体どうしたら良いのか分からなくなってしまう。
後半の離縁の話も同じように厳しいです。「淫らな行い以外の理由で妻を離縁する者は誰でも、その女に姦淫の罪を犯させることになる。」ここで言う「淫らな行い」というのは、相手が不倫をした、ということでしょう。それ以外の理由で離縁するなら、それは相手に姦淫の罪を犯させることになる、と言っておられる。この言葉を一つの根拠に、教会は「離婚は罪だ」と教えてきました。そのためにとても辛い思いをしてきた人もたくさんいる。誰も離婚しようと思って結婚するわけではない。他人には計り知れないようないろいろな事情のために、これ以上一緒に生きることができないということも起こります。起きてしまいます。それが私たちの現実です。それを「罪だ」というひと言で片付けられてしまったら、あまりに立つ瀬がない。
今日の御言葉は、あまりにも私たちの生活に生々しく入り込んできます。それだけにどう受けとめたら良いのか分からなくなってしまう。できれば耳を塞いでしまいたくなる御言葉ではないでしょうか。
一度立ち止まって考えたい。この言葉をお語りになったのは、イエスさまです。私は、そのことが決定的な意味を持つ、と信じています。
以前、ある牧師たちの集まりでこのような話をしたことがあります。イエスさまは性欲をお持ちだったのでしょうか?私は、あまりそういうことを考えたくないなと思ってしまいます。しかし、ある牧師がすぐにおっしゃった。主イエスも性欲をお持ちだったに違いない。それが、イエスさまが人間になられたということの意味だ。主イエスも私たちと同じ肉体を持っておられる。性欲もお持ちに違いない。しかし、主イエスはその肉体の欲のために罪を犯さなかった。主イエスは「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)と書いてあるとおりではないか。
私たちの弱さに深く同情してくださる主イエスさまが、慈しみをもって語りかけてくださったのが今日の御言葉です。他の何でもなくそのことを信頼して、イエスさまの御言葉に耳を傾けたいのです。
Ⅱ.主が問うておられるのは
主イエスはここで何を問うておられるのか。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」
まさに主イエスは他の何でもなく私たちの心を問うておられます。「姦淫するな。」旧約聖書にそう書いてある。十戒の戒めです。ユダヤ人は決して他人の妻と関係を持つようなことはしない。しかし、形の上で他人の妻と不倫の関係にならなければそれでいいのかというと、そうではないと主イエスは言われるのです。情欲を抱いて女を見るなら、すでに心の中では姦淫を犯している。形の上で姦淫を犯しているかいないか、ということでは不十分だ、と主は言われます。
あるいは、離縁の方でも話は同じです。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と言われている。」これも、旧約聖書に出てくる戒めです。女性の立場が非常に弱い社会でした。夫から離縁されてしまうと、その後ひとりで生きていくのはとても厳しい。それで、元の夫が離縁状を持たせる。「この女はもはや私の妻ではない。」それがあるとその後自由に他の男と結婚することができる。もともとは女性が一方的に不利な立場で家を追い出されることのないように、妻の立場を守るための規程だったと考えられているようです。しかし、主イエスは更に言われるのです。離縁状を渡すという形ばかり整えて、妻が不貞を働いたというのでもないのに勝手に家から追い出すということがあってはならない、と。
イエスさまがここで問うておられるのは、どちらも、私たちが他人とどういう関係を結ぶのか、ということではないでしょうか。情欲を抱いて女を見る。つまり、自分の欲望の対象として相手を消費する。そこには、相手への愛はありません。相手を愛するために見つめているのではなく、自分の欲を満たすために見つめているからです。あるいは、形だけそれらしく整えて妻を家から出してしまう、というときにも、そこには相手への愛はない。
一人の女性を自分の妻として真実に愛するというところから生まれてくるものではない。主イエスがここで問うておられるのは、私たちの愛の真実ではないでしょうか。
私たちは愛によって関係を築いているのか?
今日のところでは、夫婦が問題になっています。前回のところでは、22 節などを見ると「きょうだいに腹を立てる者は」とおっしゃっていましたが、「きょうだい」の話でした。ここでの「きょうだい」というのは、同じ親から生まれた兄弟姉妹という意味ではなく、本当に深い関わりにあり、共に生きる仲間、ということであると思います。そういうきょうだいとの間でのことは、取り繕ったり隠しておいたりすることがなかなか難しい。一緒に過ごしていれば相手の気持ちは分かります。しかし、夫婦はなおのことそうです。夫婦はきょうだいよりももっと長い時間一緒にいるし、良いところも悪いところも何もかも見えてしまう関係です。あの人は表では良い格好しているけど、本当はこんな人だ。そういうことが全部分かってしまいます。血のつながっていない他人が一緒に生きているのですからたいへんなことです。主イエスさまは、そういう関係に対して「愛する」ということの真実をここで問うておられるのです。あなたのその眼差しには愛があるか?あなたは愛をもってその人と一緒に生きようとしているか?相手を一人の人間として、人格として、神に造られ、愛されている存在として、その尊厳を重んじているか?
主イエスは、そのことを問うておられるのではないでしょうか。
Ⅲ.本当に愛してくださったのは
私たちが今耳を傾けているのは「山上の説教」と呼ばれている主イエスさまの御言葉です。山上の説教はもともと主イエスさまの一つの宣言に導かれるようにして始まっていました。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」
天の国、つまり神の国が私たちのところに来ている。今日私たちが耳にしているのは、神の国に直面している私たちの夫婦関係の話です。あるいは、夫婦という関係を基にして、私たち天の国に直面している者たちの人間関係を主イエスが問うておられるのです。
私たちの夫婦の関係は、他でもない、キリストの前にある関係です。私たちの関係の真ん中に神様との関わりがあるのです。神様との関係は良好だけど人間関係はダメだ、ということはあり得ないのです。キリストが夫婦の関係の中に入り込んできておられるからです。夫婦の間の愛の関わりを結ぶ絆はキリストご自身にほかならないのです。
そのキリストが私たちにおっしゃる。「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」
もしも、あなたの右の目があなたをつまずかせて罪に引きずり込むなら、つまりあなたに愛することをやめさせてしまうなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。恐ろしいほど厳しい言葉です。しかしこれは、私たちの罪がどんなに小さくても、それがどんなに恐ろしいものなのかを誰よりもよくご存じのお方の言葉です。心の中で誰にも知られずに始まった小さな罪。その僅かな欠片がどんなにか恐ろしい傷を生むか。私たちの存在がどんなに罪に対して弱く、取り込まれてしまうか。どんなに小さな罪の欠片であっても、それは捨てなければならない。
しかし、そう言われれば、僅かに小さな欠片ほどの私も残りはしない。私の存在まるごとが罪と一緒に滅ぼされて地獄の火で焼かれるしかない。
これは、主イエスさまの言葉です。イエスさまは、私たちを滅ぼすためにこのようにおっしゃったのではありません。実際に目どころか、手だけではなく、十字架の上で全部を滅ぼされつくしたのは、私たちではなくイエス・キリストです。イエスさまが罪の火に滅ぼされたお陰で私は天の国に迎えられた。あなたも愛をもって生きることができる。主イエスさまは私たちにそう語りかけてくださっています。

