命を養う羊飼い
和田一郎牧師 説教要約
2026年8月23日
エゼキエル書34章11-16節
マルコによる福音書6章30-44節
Ⅰ.立ち止まり、主のもとで休む
今日の箇所は、「五千人の給食」と呼ばれる有名な物語です。イエス様が、わずか五つのパンと二匹の魚によって、男だけでも五千人という群衆を満腹させられました。この物語を読んで、「本当にそのようなことが起こったのだろうか」と疑問を感じる人もいるでしょう。以前、ある人が「病人の癒しならまだ理解できるが、五つのパンと二匹の魚が五千人以上に行き渡ったというのは信じられない」と語った人がいました。確かに、パンがどのように増えたのかということだけに目を向ければ、不思議な出来事としか言いようがありません。そのため、「実は人々も弁当を持っていたが隠していた。イエスと弟子たちが食べ物を分け始めたので、皆も自分のものを出して分かち合ったのだ」と合理的に説明する人もいます。しかし、それではこの物語は、「互いに分かち合いましょう」という道徳の話になってしまいます。
マルコが伝えようとしているのは、パンがどのような仕組みで増えたかではありません。この出来事を通して、イエス様がどのようなお方として現されたのか、また弟子たちをどのように用いられたのかということです。この奇跡は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書すべてに記されています。それほど弟子たちにとって忘れ難い出来事でした。弟子たちはここで、自分たちの力の限界と、イエス様こそ命を養うまことの羊飼いであることを知ったのです。
物語は、宣教に遣わされていた弟子たちが帰ってくるところから始まります。30節には、「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」とあります。弟子たちは二人ずつ遣わされ、悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人を癒してきました。「残らず報告した」という言葉からは、彼らの興奮が伝わってきます。「私たちが語ると、人々が聞いてくれました」「病人が癒されました」と堰を切ったように語ったのでしょう。
しかし、ここには危うさもあります。弟子たちは、「イエス様が権能を与えてくださったこと」よりも、「自分たちが行ったことや教えたこと」に心を向けています。働きがうまくいったとき、人は神の恵みよりも自分の成果に目を奪われます。「主が用いてくださった」という感謝が、「自分にはこれだけのことができる」という誇りに変わることがあるのです。その弟子たちにイエス様は、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われました。「この勢いでもっと働きなさい」とは言われませんでした。まず立ち止まり、休むように命じられたのです。
ここでの休息は、単に体を休ませることだけではありません。「寂しい所」は、イエス様にとって神と向き合い祈る場所でした。1章35節にも、イエス様が朝早く人里離れた所へ出て行き、祈られたことが記されています。それは働きが失敗したときではなく、評判が広がり、大勢の人々が押し寄せていたときでした。
私たちは困ったときには祈ります。しかし、物事が順調で、自分には力があると思うときにこそ祈りが必要です。そのようなときほど、神の恵みを忘れ、自分の力で歩んでいると思いやすいからです。イエス様は弟子たちを「自分たちがしたこと」を語り続ける場所から離し、「神が自分たちを通してしてくださったこと」を見つめる祈りへと招かれたのです。
Ⅱ.飼い主のいない羊を憐れむ
イエス様と弟子たちは、舟に乗って人里離れた所へ向かいました。ところが人々はその行き先に気づき、町々から徒歩で駆けつけ、彼らより先に着きました。ようやく休めると思っていた場所に、再び大勢の群衆が待っていたのです。しかし、群衆を御覧になったイエス様の心に生まれたのは、いらだちではありませんでした。34節には、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。イエス様は群衆を一つのかたまりとしてではなく、一人ひとりの疲れや痛み、迷いを御覧になりました。「深く憐れむ」とは、単にかわいそうに思うことではありません。もともとは内臓を意味する言葉で、はらわたが揺さぶられるほど心を痛めることです。相手の苦しみを遠くから眺めるのではなく、その痛みを御自分の痛みとして受け止め、助けるために動き出さずにはいられない憐れみです。
そしてイエス様が最初に与えられたのは、食べ物ではなく「いろいろと教え始められた」とあるように御言葉でした。人間はパンだけで生きるのではありません。物質的に満たされていても、神に見守られ、愛されていることを知らなければ心は飢えたままです。そこでイエス様は、神があなたを見ておられること、決して見捨てておられないこと、迷ったあなたを捜し出し、御自分のもとへ連れ帰ろうとしておられることを教えられました。
詩編23編2節には、「主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる」とあります。今日の箇所でも、イエス様は人々を青草の上に座らせます。イエス様こそ、疲れた者を休ませ御言葉によって心を満たし、パンによって体を満たし永遠の命へ導いてくださる羊飼いなのです。
Ⅲ.「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」
時刻が遅くなると、弟子たちは、「人々を解散させ、周りの里や村へ行って、各自で食べ物を買わせてください」と申し出ました。それは現実的で常識的な判断でした。ここは人里離れた場所で、集まっているのは男だけでも五千人です。しかし、弟子たちの提案は、言い換えれば、「私たちには何もできないので、人々を自分たちから離してください」というものでした。
ところがイエス様は、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と言われました。それは、「あなたがたの力だけですべてを解決しなさい」という意味ではありません。「この人々の必要を、あなたがたと無関係なことにしてはならない。私と共にこの人々に仕えなさい」という招きです。私たちの周りにも、孤独を抱える人、安心できる居場所のない子ども、病や老いの中にある人がいます。その現実を前にすると、「私一人に何ができるのか」「教会にできることには限界がある」と感じます。確かに教会だけですべての問題を解決することはできません。行政や医療、福祉につなぐことは必要です。しかしイエス様は、困難を抱える人を、自分たちの外へ送り出して終わることをお許しになりません。
弟子たちは、「二百デナリオンものパンを買って、みんなに食べさせるのですか」と答えました。彼らの計算は間違っていません。しかしその計算には、イエス様がおられることが入っていませんでした。
信仰とは現実を無視することではありません。現実を見つめながら、「誰が私たちと共におられるのか」を見つめることです。イエス様は、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と言われました。ないものを数えさせるのではなく、今あるものを尋ねられたのです。調べてみると、五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。五千人以上を前にすれば、何の役にも立たないような量です。しかしイエス様は、持っていないものではなく、今持っているわずかなものを求められました。
私たちも、能力がない、時間がない、若さがない、経験がないと、ないものを数えます。けれどもイエス様は、「あなたの手元には何がありますか」と尋ねられます。人の話を聞くこと、名前を覚えて声をかけること、食卓を共にすること、人知れず祈ることかもしれません。イエス様は、それを「足りない」と退けず、神の業のために用いてくださいます。
Ⅳ.イエス様が裂き、弟子たちが配る
イエス様は五つのパンと二匹の魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂き、弟子たちに渡して配らせました。パンを祝福して裂かれたのはイエス様であり、人々に配ったのは弟子たちです。人々を養う恵みの源はイエス様ですが、その恵みを届けるために、弟子たちの手が用いられたのです。
すべての人が食べて満腹し、残りを集めると十二の籠がいっぱいになりました。イエス様の恵みは、わずかに行き渡るだけではなく、すべての人を満たし、なお余りある恵みです。
私たちは、自分の力で人の命を養うことはできません。しかし、イエス様から恵みを受け取り、それを隣人へ手渡すことはできます。小さな祈り、優しい言葉、共に過ごす時間、分かち合う食事を、イエス様は誰かの命を養うために用いてくださいます。私たちはまず、主によって養われる羊です。そして主は、養われた私たちを、今度はその恵みを人々へ届けるために用いてくださるのです。
お祈りいたします。

