あなたは私に従いなさい―ペトロの再献身

<イースター>
松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書21章15-25節

2022年4月17日

Ⅰ.ペトロの挫折

ペトロ、主イエスが十字架にお架かりになる前夜、「主よ、なぜ今すぐ付いて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)と威勢の良いことを語っていたのですが、そのペトロに対し主イエスは、「私のために命を捨てると言うのか。よくよく言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(13:38)とお語りになりました。この予告どおり、ペトロは三度にわたって、「イエスを知らない」と告白してしまう。大きな挫折を経験してしまうのです。

Ⅱ.「作業途中」のペトロ

さて、今日の聖書の箇所は、そうした挫折を経験した弟子のペトロと、復活の主イエス・キリストが再会した時のことを伝えています。
場面は、ティベリアス湖畔。「ティベリアス」とはガリラヤ湖の別名です。そこは元々漁師であったペトロが生まれ育った湖畔です。思えば三年前、この湖で漁をしている時、「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と主イエスに声をかけられ(マタイ4:19)、弟子としてスタートを切った、その出発点が、このティベリアス湖でした。ある意味で、弟子としての原点とも言える記念の場所だったのです。
そうした思い出ぶかい場所で、復活の主イエスが「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」(21:15)と問われたのです。
この時、主イエスは「ペトロよ」とは呼ばず、「ヨハネの子シモン」と呼びかけています。御自身がお付けになった名前でなく、敢えて元の名前で問われたのは、この同じ場所で「私に付いて来なさい」との招きに応えた時の初心に立ち返ることを促されたのではないでしょうか。三年前、「私に付いて来なさい」と招かれ、網を捨て、イエスさまに従って来た。ところが、いつの間にか、新鮮さが色あせて来て、逆に、この三年の間に犯した数々の失敗、そして何よりもつい先日、予告通り、愛しているはずの主を三度も「知らない」と否んでしまった。これまで自分は何のために主イエスに従って来たのか、その全ての営みが水の泡となってしまうような決定的な挫折を経験していたのが、この時のペトロだったのです。
でも復活の主イエスは、「取り返しのつかない失敗」をしてしまったと思うどん底状態にあったペトロに対し、「その“取り返しのつかない失敗”を取り返す、その失敗を償うためにこそ、私は十字架にかかり復活した。あなたは、私の赦しの愛の中でもう一度、いや何度でも、やり直してごらんなさい」。そのように、主イエスの方から手を差し伸べてくださっているのです。
イザヤは、「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。」(イザヤ64:7)と語ります。主イエスさまも弟子のペトロに対して、そのように関わってこられたのではないでしょうか。様々な出会いや出来事を通し、どっしりとした、岩のような信仰の人ペトロへと練り上げようとして来られたと思うのです。
この時のペトロは、〈もう駄目だ。取り返しがつかない〉と、この世の終わりが来たような思いでいたのではないかと思いますが、主イエスはペトロをそうは見ておられなかった。もっと長い目で私たちを見ていてくださる。「私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業」だからです。
パウロはフィリピの信徒への手紙(1章6節)で、「あなたがたの間で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を完成してくださると、私は確信しています。」と語りました。主イエスが、あることを始めたならば、必ずそれを完成される。イエス・キリストってそういうお方なのだという約束の言葉です。先ほどの陶工と粘土の関係で言い表すならば、ティベリアス湖で「私に付いて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれたイエスさまが、その時、シモンをいう名の粘土を、人間をとる漁師に造り上げるための「作業」を開始してくださった。そしてそのお方は始めたことを完成される方ですから、必ず完成へと導かれるのです。
この時のペトロも作業途中なのです。ところが、どういう訳か自分を完成品のように錯覚してしまった。そして傲慢にも、「私はどこまでも付いて行きます。いや、行けます。あなたのためなら命を捨てることもできます。その覚悟があります」と豪語したのです。その結末を私たちは知っています。
ただ、私たちの主イエスは、こうした失敗の出来事も用いて、ペトロという粘土をさらに練り上げ、完成作品へと導いて行くこともできるお方でした。それが、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」という、今日の箇所、15節の主イエスの問いかけの狙いでしょう。これに応答する時、自らの内側に始めてくださっている、主の御業の進展に協力することになるのです。

Ⅲ.あなたは、私に従いなさい

さて、この個所を読むたびに〈本当に面白いな〉と思うことがあります。日ごろ、私たちも経験することでしょうが、一つの問題をクリアすると、不思議とまた、新たな心配や思い煩いに直面することがあります。そのようにして、いつも心配や思い煩いに悩まされる。実は、この時のペトロもそうだったのです。この時、ペトロからしたら、愛するイエスさまとの関係が回復したわけですから、その恵みを喜び感謝していればいいところでしょう。ところが早速、彼の心の隙間に誘惑の手が伸びたのです。新しい歩みをしようとした矢先、振り向くと、そこに「イエスの愛しておられた弟子」の姿が目に飛び込んできた。弟子のヨハネ、この福音書を書いた使徒ヨハネです。前から彼のことが気になっていた。そして今ふたたび、ヨハネの存在が気になってしまったのです。
そういう人、いませんか?職場や学校に。いや、教会の中にも居てもおかしくないでしょう。こういうことを、私たちもよく経験すると思います。その人が気になってしようがない。どう云う訳か、自分と比較し、何か上手くやっているように見えて、私だけが損をしているようで、その人の一つ一つの言動が鼻につく。気になってしょうがないのです。
でも、そのように思うペトロに対し主はこう言われる。「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい。」それぞれに負うべき「十字架」がある、とおっしゃるのです。
主の赦しの愛の中で、その人に託された人生を引 き受け、一生かけてキリストに似たペトロ、キリストに似たヨハネ、キリストに似た私へと、陶工である主は、その手の業を進めておられるのです。だとするならば、ペトロの傍に、気になるヨハネが置かれていること。そうしたヨハネとの出会い、ヨハネとの葛藤も実は、神さまがペトロを成長させるために、いやヨハネと一緒に成長するようにと、用意してくださった、大切な交わり、主にある交わりだということでしょう。

Ⅳ.献身をあらたに

最後にもう一つだけ、注目して終わりにしたいと思います。ここで主イエスが焚き火を用意しておられたのです。ペトロは、焚火にあたりながら何を考えたでしょう。大祭司の中庭で主を否んだ時の、あの情けない自分のことも心に浮かんできたかもしれません。あの時も焚き火に当たっていましたから…。
そして火の上には魚が載せてあってパンもありました。振り返ってみれば主イエスと共なる三年間を懐かしく思い起こしたのではないかと思います。そう言えば、あの「五つのパンと二匹の魚の給食」も、同じ湖近くで起こった出来事だったと、しみじみ思い浮かべていたのではないかと思います。
あの奇跡の時は、自分たちは宣教旅行から帰って来た直後で、心身共に疲れ果てていた。群衆の存在はいい迷惑だった。でも、疲れた体を押してパンと魚を配る中、人々の顔に笑みがこぼれる。「ペトロさん、ありがとう!」という感謝の言葉が返って来た。いつの間にか我をも忘れ真剣に配給していた。そして終わってみると、十二の籠が一杯になる程のパンの残りにあずかった。「十二」とは、まさに自分たち十二弟子の数だった。
ペトロは、イエスさまに従うことこそ、本当の祝福の道なのだということを、あらためて思い起こし、ここで再献身したのではないでしょうか。
今日、主は、私たちのためにも食卓を整えてくださいました。パンとぶどう液に与ることを通して、ペトロや弟子たち同様に、主イエスに付いていくことこそ、実は本当に恵まれた道なのだということを、今までの歩みを振り返りつつ、思い起こしたい。
そして、「あなたは、私に従いなさい」と私たち一人ひとりに声を掛けておられる。その招きに、「主よ、あなたはご存知です」と応答し、主を愛し主に従う決心を新たにしていきたいと願います。
お祈りいたします。

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