いったいこれはどういう人だ

2018年3月25日
受難節第6主日
和田一郎副牧師
ゼカリヤ書9章9~11節
マタイによる福音書21章1~11節

Ⅰ.はじめに

2千年前、エルサレムでは過越しの祭りが行われようとしていましたが、この時代も混沌とした時代でした。特にユダヤ人にとっては、自分の国をローマ帝国に支配されていましたから、違う神を崇める異邦人によって支配されているという屈辱感がありました。そのような闇の中に光を灯す存在として、来られたのがイエス様でした。多くの人々が、イエス様の話しを聞きたいと願って集まったのです。混沌とした時代に、新しい異質な何かが現れ、希望のもてない生活の中に何か光るものがやって来た。それに多くの人が期待したのです。
それと同時に、これを恐れた人々がいました。ユダヤの律法学者や祭司長たちは、自分たちの立場を危うくする身の危険を、このイエス様に感じました。群衆がこのイエス様をユダヤの救い主である王として支持すれば、権力者たちに認められていた立場がなくなってしまう恐れがありました。このように、群衆の期待と権力者たちの恐れは、イエス様一行がエルサレムに近づくにつれて高まっていきます。そしてイエス様が十字架に架かるまでの、最後の5日間がエルサレム入城で始まります。

Ⅱ.エルサレムの途上で

イエス様がエルサレムに行かれるのは、もちろん初めてではありません。しかし、今回のエルサレムへの旅はそれまでとは違ったものです。ご自分の死と復活を弟子達に予告したうえで、ご自身も十字架に架かることを心に決めて、エルサレムに向かっていました。その予告というのは、こういったものです。「わたしはエルサレムに上っていくが、祭司長や律法学者に引き渡され、死刑を宣告され、異邦人によって十字架につけられる。しかし、わたしは三日目に必ず復活する」というものでした。弟子達はこの受難の予告を理解できませんでしたし、理解しようともしませんでした。これからユダヤの王になると期待しているのに、死刑とか十字架とかわけがわからないことを言わないで欲しいとしか思っていませんでした。エルサレムに一緒に向かって行くイエス様と弟子達の間には、行く方向は同じでも、あまりにも大きな隔たりがあったのです。
イエス様は他にも心に決めていたことがありました。それは、いつ自分が十字架に架かるのかということです。そしてそれは過越しの祭りの日でなければ、なりませんでした。過越しの祭りは出エジプトを記念する祭りです。モーセとイスラエルの民がエジプトから逃れる時、生け贄として小羊を屠り、その小羊の血を家の入口に塗ることでイスラエルの民の命は助かりました。そしてエジプトからの解放は、これから起こる十字架による全人類の解放を預言していました。ですから神の子羊であるキリストが、この祭りの日に死ぬことによって預言は成就します。そのたった一日の過越しの祭りが、次の金曜日に迫っていました。

Ⅲ.子ロバに乗って

イエス様は滞在していたべタニアの村を出て、エルサレムに向かって歩いていかれました。エルサレムまでの距離はおおよそ3キロメートル、歩いて1時間ぐらいでしょうか、その途中にあるベトファゲという村を通りかかると、イエス様は二人の弟子を遣わして子ロバを調達してくるように、告げられました。二人の弟子が行ってみると、まだ誰も乗ったことのない、子ロバと親のロバが木の幹に繋がれています。イエス様は、二人の弟子に「主がお入り用なのです」と言いなさい、と命じました。その通りに言うと、何の疑いももたれずにロバを手に入れることができました。
これは、今日お読みしました旧約聖書ゼカリヤ書9章で、キリストご自身について書かれていることを成就させようと心に決めておられたからです。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」。(ゼカリヤ書9章9節)
王や将軍でしたら立派な馬に乗って入城するのが相応しいでしょう。歴史を見ても優れた武将であればあるほど、乗っている馬も名馬です。ナポレオンが馬に乗っている姿も絵に描かれていますが、そのような名馬に乗って現れたら、乗っている人も堂々と見えたでしょう。しかし、イエス・キリストがエルサレムに入場する時に乗っていたのはロバです。それも子ロバ、おおよそあらゆる動物の中でも、極めて穏やかで控えめな動物、それも子ロバにのって行かれたのです。
しかし、これもゼカリヤ書に記された預言の成就ですが、その理由がありました。ゼカリヤ書には続いてこうあります。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカリヤ書9章10節)
イエス様は、人間の高ぶりを絶ち、平和を成す人として来られました。高ぶる者としてではなく仕える者として来られました。子ロバに乗ってエルサレムに向かって行かれたのは、平和の主であることのしるしでした。

Ⅳ.「みんな」と一緒

エルサレムの東側には、オリーブ山というこんもりとした丘がありました。ロバに乗ったイエス様の一行が、オリーブ山の山頂を通ってエルサレムの町へと下っていきます。「イエス様がエルサレムにやって来る」その噂を聞きつけた人々は、ナツメヤシの枝を持って待っていました。ナツメヤシのことを棕梠と訳します。
過越しの祭りの為に、いつもでしたら6万人程のエルサレムの住民でしたが、その十倍以上の人々で膨れ上がり、人、人、人でごった返していました。その群衆が押し寄せてきて、今か、今かとイエス様が来るのを待っていたのです。オリーブ山から降りてくるイエス様を見て、人々は熱狂しました。子ロバに乗ってエルサレムに近づいてくると群衆は、ナツメヤシの枝を道に敷き始めました。それどころか上着を脱いで、上着までも道に敷きました。かくしてメシアが通る道ができると、群衆は賛美をし始めました。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。ホサナは「主よ我を救いたまえ」の意味です。イエス様を救い主として、群衆は熱狂的に迎えました。

Ⅴ.「いったいこれはどういう人だ」

熱狂する群衆に圧倒されるように、肩を落としているのがユダヤ人の権力者たちでした。彼らは「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」と苦々しい思いで見つめていました。過越しの祭りに集まった人々の期待、歓喜、不安、疑い、落胆、これらが入り混じった凄まじいエネルギーがエルサレムを覆っていました。その空気に戸惑うある人たちは「いったいこれはどういう人だ」、と口にしたのです。群衆は「預言者だ」「救い主だ」「ユダヤの王だ」と叫んでいました。しかし、この数日後には、彼らがイエス様を「十字架につけよ」と、手のひらを返すように叫ぶことを私たちは知っています、そしてイエス様もそれを知っていました。エルサレムにいた人たちは、十字架の出来事の後でもそう言ったのではないでしょうか。「いったいこれはどういう人だ」と。
そして、わたしたちも同じです。イエス・キリストをどのように考えればいいでしょうか」。恐らく私たちは、あの群衆の中の一人です。イエス様のことを期待し、喜び、不安になり、疑いをもったり落胆する。いったいこの人は、自分の人生にどう関わる人だろうか?と。
わたしたちは一人で生きていけません。この世にいる「みんな」の中で生きています。
「みんな」の中にいることは安心があります。時として「みんな」は、正しいという考えがあります。寄らば大樹の陰とか、みんなでやればそれが正しいなどと思ってしまいます。そしてこれは民主主義の大きな欠点でもあります。
「みんな」の意見であれば納得することはできても、真理はいつも少数派によって主張されてきたことを歴史は物語っています。群衆の意見が正しいという考えをもつと、群衆におもねるようになり、群衆を操作しようとすることが行われていきます。そして、今の時代は、「共感」さえすれば「みんな」は集まるようです。
そのような「みんな」からの称賛も、あざけりにも真理はありません。しかし、あのエルサレムの熱狂の中で、一人心が冷めている人がいました。それはイエス様です。大群衆の歓喜も称賛もイエス様に向けられていましたが、そのイエス様は人々の称賛に溺れなかった。それは、このお方に真理があったからです。わたしはこの揺るぎないイエス様に、自分の人生に関わって欲しいと思うのです。わたしだけではなく、家族や大切な人たちも、揺るぎないイエス様と関わり続けて欲しいと思うのです。それはこの方の真理が揺るぎないものであると思えるからです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われました。そして、この道を歩きなさいと招いてくださっています。あのエルサレムに入城された時も、二千年たった今も、この道を一人でも多くの人たちと歩むことを、イエス様は望んでおられます。今日から受難週を迎えます。主イエスの受難を覚えて、この一週間を共に十字架へ向かって歩んでいきましょう。お祈りをします。

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