きみは愛されるため生まれた
2017年11月12日
成長感謝礼拝・ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章13~16節
Ⅰ.子どもの祝福を祈り求めて
先日、園庭を歩いていましたら幼稚園のお母さまに、「先生、息子が先生にお会いしたって、言っていました」と声をかけられました。その息子さんはプレイズチャペルに出席し、その後のファミリーバーベキューにも参加したそうです。その時、私と同じテーブルを囲んだのです。中3になり、背が高くなっていましたが、その顔を見た瞬間に〈ああ、この子のこと、覚えている〉と思ったのです。顔はその時のまま。まん丸の可愛いお顔をしていました。「久しぶりだね。本当に嬉しい…」としばらく話した、その子のことでした。その日帰宅するなり、お母さんに「今日、松本先生と会った。先生、大きかったけれど、小さくなっちゃった」と言っていたそうです。
Ⅱ.弟子たちを憤られるイエスさま
人々が自分の子どもたちを連れてイエスさまのところにやってきました。どこの親でも子どもの幸せを考えます。彼らも同じでした。様々な奇跡をし、教えをし、働いておられるイエスさまが近くに来ておられると聞き、わが子に触れていただきたいと御許に連れてきたのです。
しかし弟子たちは許しませんでした。その人々を叱ったのです。考えてみれば「叱る」とは強い言葉です。何故弟子たちはそうしたのでしょう。1つには、子どもたちは「役に立たない存在」と見たからだと思います。〈子どもなんか主イエスの高尚な教えを理解しない。うるさくて迷惑をかける〉。そう考えた。だから叱ったのです。
ところが、これに対するイエスさまの対応には、もっと厳しい言葉が使われています。イエスさまは、弟子たちを「憤られた」のです。あの優しい、柔和なイエスさまが「憤り」をあらわにされたのです。弟子たちの行為は、それほどにイエスさまの意に反するものだったのでしょう。
何が問題だったのでしょうか。弟子たちが子どもたちの存在を「役に立たない存在」と見ていたのに対して、イエスさまは全く違った視点でご覧になっていたということです。
それは「存在の喜び」という視点です。確かに子どもたちは大人から見て、何もできない存在かもしれません。時にやっかいなことを仕出かすこともあるでしょう。でもイエスさまというお方は子どもの存在を、そのまま喜んでおられるということなのです。
Ⅲ.存在の喜び
以前、友人の牧師が幼稚園の教育講演会に来てくださいました。講演の最後に、講師の先生は一枚のお札を高く上げて、「みなさん、欲しいですか?」と尋ねました。
戸惑っている皆を見て、今度は、それをクチャクチャにして靴の裏で踏みつけ、皺くちゃになったお札を広げて再び同じ質問をしました。「欲しいですか?」。
その時、見ていた人は誰もがハッとしました。いくら皺くちゃになって汚れが付いていたとしても、その価値に変わりはないのです!
私たちは、一生懸命皺がないように、また汚れないように生きようとします。勿論、綺麗な方がいいかもしれません。しかし、私たち人間の価値は、表面的な姿かたち、あるいは持ち物などによらないのです。もっと本質的なところで、すでに私たちは尊い者として生かされているのです。神さまに愛されるために生まれた者として。
Ⅳ.きみは愛されるため生まれた
私たちは「愛されるため生まれた」ということを、聖書ははっきりと語っています。そのことを、しっかりと受け止め、互いに伝えあい、祝福しあって生活していけたら、どんなに幸いでしょう。
今日の聖書の一番終わりのところには、イエスさまが、「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と記されています。
これは聖書が教える「子育ての3つの基本」と呼ばれているものです。
「抱き上げる」とは、スキンシップをすること、子どもを触ることです。教育の専門家は、抱き上げることを通して、子どもには人を信頼する能力が培われるのだと語っていました。この世界は信頼できる世界である。人を信頼してよいのだ、と。だから、自分を預けてもよいのだ、という信頼感です。そのように信頼する力が与えられて、はじめて冒険心がわいてきます。そして、自分を発揮していくことができるのです。
第2にイエスさまは、子どもたちの上に「手を置」かれました。これは「祝福」ということと関係しているのですが、手を置くということは、祈るということです。
聖書の中に、「私は種を蒔き、アポロが水を注いだ。しかし、成長させたのは神です」という言葉があります。子どもたちを愛する神さまは、その子の成長を願うと共に、その子を成長させる力をもお持ちのお方です。
私たちは親として出来ることを果たしていきます。けれでも、どんなに頑張っても、時として出来ないことも起こるのです。場合によっては、子育てで行き詰まってしまうこともあるでしょう。そうした時に、この「成長させてくださるのは神さまです」という聖書の言葉を思い出していただきたいのです。そして「手を置いて」、子どもたちを愛し、守り、そして成長させてくださるご意思と力をお持ちの神さまに祈るのです。それが私たちに出来る事です。
子育ての基本の3番目は「祝福する」ということです。これは「褒める」ことです。何かを見つけて褒める。その子が、その子であることを認めることです。何故でしょう? その子は、「神さまに愛され、人に愛されるために生まれてきた尊い存在だから」です。
この時、イエスさまのこうした子どもへの接し方を見ていた周りの大人たちも、様々なことを感じたことでしょう。今、私たちは、イエスさまの姿からこのように大切なことを教えられるのです。
1970年12月の「みどり会報」の中に、みどり幼稚園の先生だったSさんの、子どもたちとのやりとりを書いた「アンテナ」という題の素敵な文章がありましたのでお読みします。
アンテナ
「末っ子モーリー」というイギリスの昔話を読んであげた日のことです。お弁当を食べ終わった何人かの子どもたちがこんなことを話し始めました。「僕、末っ子だよ」、「僕は次男で末っ子だよ」、「○○ちゃんは長女だよ。先生も長女でしょ」。年長組になって、自分と家族とのつながりもはっきり分かり、友達の家族にも関心を示すようになってきた子どもたちです。
私は、子どもたちの話しをしばらく聞いた後で、こんなふうに問いかけてみました。「ねえ、みんな! みんなは1人ひとり名前も違うし顔も違うでしょ。でもね、本当はみんな神さまを信じる人は、みんな兄弟ですよって、聖書に書いてあるの」。
子どもたちはびっくりしたように、「へぇー」と顔を見合わせて言いました。するとその中の1人が、「ああ、そうか。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である、だものね。イエスさまが一番上で、僕たちは下につながっているんだよね。だから兄弟なんでしょ。」と。大発見でもしたように、嬉しそうに言いました。
私は驚きました。この聖句はヨハネによる福音書15章5節で、一年前に、一房のぶどうをみんなで分け合いながら覚えたのです。この聖句が子どもの心の中に生きていて、このような会話の中に適切に、言葉になって出て来たのです。
幼い子どもの心は素直に何でも受け入れていきます。大人が意識的に、または無意識に与えるものすべてを。この大人にはない素直さは素晴らしいことで、ある時には羨ましさを覚えることもあります。しかしそのことは実に怖いことであることも思わずにはいられません。
子どもたちは私たち大人の言葉に耳を傾け行うことをよく見ています。また、時には心の動きを敏感に感じとることもあります。まさにアンテナです。そのことを思う時、神さまの前にあっては私たち大人も罪深い者であり、間違いを犯す者であることをも伝えなければなりませんが、それと共に、本当によいものをたくさん子どもたちに与えて行かなくてはならないと思うのです。
物質的な面でも精神的な面においても、豊かに多くの物がある中で、子どもにとって本当に必要な大切なものを、私たち大人は正しく選んで与えて行かなければならないと思うのです。大人は、子ども以上に、多くのことを敏感に感じ取ることの出来るアンテナでなくてはいけないかもしれません。
私は、この文章を読み、「幼子のようにならなければ、神の国に入ることは出来ません」と言われた主の言葉を思い出しました。大人である私たちに向かって言われた主イエスさまの言葉です。
今日は成長感謝礼拝ですが、聖書は私たち人間のことを「神の子」と表現します。神さまは大人になった私たちに対しても同じように、抱き上げ、手を置き、祈り、そして祝福してくださっています。そのことを経験するのが、日曜日の礼拝です。この礼拝の中で、私たちに対する、この神さまの愛を確認させていただきたいと願います。
お祈りいたします。