ひとつの出会いー主にある交わりに生きる

2017年12月31日
和田一郎伝道師
エレミヤ書29章10~14節
コロサイの信徒への手紙3章16節

Ⅰ.主にある交わり

キリスト教会にとって、2017年は宗教改革500周年の年でした。1517年にルターが宗教改革の大きな一歩を踏み出しましたが、わたしたちの高座教会もこのルターからはじまった宗教改革の流れの中で生まれたプロテスタント教会です。宗教改革を源流とする教会はこの500年で世界中に広がり、70年前にこの地域を拠点として宣教のために生み出されたのが高座教会です。その節目の年に今年の高座教会は、信仰生活の5つの基本の中の「主にある交わりに生きる」ことを大切にしました。主にある交わりというのは、先ほどお読みしたコロサイの信徒への手紙の聖句にあるように、聖書の言葉に生きる者同士が、教え諭し合いながら、お互いに成長していく信仰生活のことです。
高座教会は、本当に祝福された教会だと思います。しかし、いまだに日本の社会の中では、クリスチャンは少数派です。神という存在を受け入れずに、人間の知恵を重んじる文化の中で、わたしたちは宣教の使命を担っています。そのような世の中で光を放つには、実は「主にある交わり」という、教会が豊かな共同体として輝きを持っていることが、光を放つ力となるのではないでしょうか。教会はキリストの体に譬えられますが、キリストの体なる教会が健康であり、力を発揮するには、一つの体として調和がなければなりません。「主にある交わりに生きる」という信仰生活が基盤となります。
今日お読みしました旧約聖書に出てくるエレミヤは、異教徒の町に住む信仰者に向けてメッセージを送った人です。旧約聖書の時代、ユダ王国はアッシリア、バビロンといった大きな国に翻弄されていました。エレミヤの時代に、ついにユダ王国は滅ぼされます。
「バビロンの王に屈服しなさい」というエレミヤの預言は、ユダ国の王様ゼデキヤにとっては、非国民のように思われたかも知れません。しかし、「主にある交わり」という信仰共同体として一致できずに、人間的な知恵に流されていたゼデキヤ王とイスラエルの民は、客観的に見てバビロンに屈服するしかありませんでした。
ユダ王国に住んでいた人々は、数回に分けてバビロンの国へ連れて行かれます。連れていかれたバビロンの町は他の神々を崇拝する異教徒の町です。真の神様を礼拝する神殿がない土地で信仰を保ち続けることが難しいと感じていたイスラエル人に、エレミヤは現実の世の中をしっかり見て、その土地で信仰生活を送るように手紙を書いたのが、今日の聖書箇所エレミヤ29章です。「将来と希望をもたらす神の計画」という希望に満ちた預言です。

Ⅱ.今住む土地で信仰生活を守ることは神のご計画

バビロンへ連れて行かれたイスラエル人は、偽預言者たちの影響を受けて、この捕囚から早く解かれて、エルサレムに帰れると言う淡い夢を抱いていました。それ故に、バビロンに馴染もうとはせず、定まった仕事も住居も求めずに、腰掛けのような気持ちで生活していました。偽りの預言者たちは、エルサレムが不滅であるかのような預言しました。その根拠は100年前のイザヤの時代に、奇跡的にエルサレムが守られたという事があったからです。ですから昔の勝利、過去の成功がもう一度ある。現在も大丈夫だというものです。しかし、ユダ王国の事実上の支配はバビロンの王によって管理されている政権でした。ですからバビロンに従うより他に道はなかったのです。
具体的にエレミヤが言ったことは、4-7節にあるとおり、バビロンの地で仕事も家庭も根を下ろして、信仰生活を守りなさいというものです。家を建てること、木を植えてその実を食べること、結婚して子どもを育てること、子どもには嫁をとり、家族を増やしなさいというものです。その土地で信仰生活を守り、家族を増やして繁栄することを考えなさい、と言うのです。さらに、それよりもっと踏み込んで、バビロンの国の繁栄を求めなさいと言います。つまり、あなた方自身が捕囚の地で繁栄するだけではなく、あなた方の存在によって、その地域が繁栄するように祈りなさい、というものです。
私たち、クリスチャンも地上の生涯というものは仮の住まいであり、本当の国籍は天国にあると信じています。ですから、この世の自己中心的な価値観に振り回されるべきではありません。しかし、それは世の中に対して否定的、消極的な態度をとることを勧めているのではありません。町内会や同窓会、政治のことに積極的になることも大事なことです。私たちと同様に世の中には罪があります。ブラックな企業やブラックな指導者、責任者もいるわけです。彼らが神に祈ることはないかも知れません。しかし、私たちは彼らの為に祈ることができます。私たちの存在を通して祝福されることを信じ、祈ることができます。
7節でエレミヤは言います「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」

Ⅲ.神の計画に目をとめる

私たちの住む社会に平安があり、周囲に住む人々にも平安があってこそ、わたしたちは平安です。ですから、バビロンの地での信仰生活は、暗い日々であってはならない。
12節、その生活で神に「呼び求める」「祈る」「心を尽くして・・求める」。これを守らなければならない。そうすればどこにいて、どんな悪い状況にあっても「神に出会う」ことができるのです。ダニエル書では、バビロンで毎日熱心に祈って信仰生活を送る、ダニエルとその友人たちの事が記されています。
これらの預言の根底にあるのは、神様の壮大で素晴らしい計画がありました。
11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
この聖句の最初に「わたしは」とありますが、11節から14節までの希望の預言には、「わたしは」という言葉が繰り返されます。これは強調表現になっていて、わたしの計画は、偽の預言者や、人間の知恵によるものではなく、神が主体的にご計画をお持ちなのだと強調しているのです。それは「平和」を与える計画です。

Ⅳ.計画の成就のために祈る信仰生活

神の素晴らしい計画が成されるために、私達がすべきことは、わたしたち高座教会の信仰生活の基本と重なっており、今年は「主にある交わりに生きる」ことをテーマにしてきました。神を中心とした兄弟姉妹との繋がりです。ダニエルもバビロンの地で、三人の仲間とバビロンの国の為に仕えながら、信仰生活を守ったことが記されています。
主にある交わりに生きる信仰生活。神を求めて祈る、教会の交わりに生き続けることが、やがて「わたしに出会うであろう」と、主は言ってくださいます。
70年前に、高座教会がこの地に置かれたのは偶然ではなく、神様の計画の一部です。
偶然ではなく、お一人お一人がこの教会に呼び集められました。それは平和の計画であって、将来と希望を与えるものであると主は言われます。そのことを信頼して、主にある交わりを強くして、この地域に光を放つ存在となっていきましょう。
この一年を振り返って、多くの兄弟姉妹との繋がりから与えられた、恵みと励ましを携えて、神様の素晴らしい希望と平和の計画に期待して、新しい年を迎えたいと思います。
お祈りをします。

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