へりくだりの道を整えて
風間亮太神学生
イザヤ書57章14-21節、ペトロの手紙一5章6節
2021年1月17日
Ⅰ.思い描いていなかった道
今年度に私がこの高座教会で研修させていただいたことは、とても意味深いものとなりました。とても難しい状況からスタートとなった今回の研修は私にとって戸惑いばかりのものでした。その中でも私自身、多くの方々と十分に深い交わりがあまり出来なかったことが少々心残りでもありました。しかし、時にはわずかながらでも何人かの方と分かち合い出来たことも感謝に思っております。高座教会の方々がそれぞれどのような道を歩みどのような信仰を持っておられるのか、同じ雰囲気の中で互いに顔と顔を合わせ、共に笑い、共に励まし、共に仕え合うということを分かち合う時間がわずかにもてただけでも私にとっては幸せな時間でした。そんな中でも、私自身が想像していたものとは異なる道を神様はこの一年私に語って下さったのだと感じます。
このコロナ禍という一年は私だけでなく世界中の人たちにとって予想外の出来事ばかりでした。おそらくこれから先も、私たちにとっての「当たり前」であったものが大きく変えられ、神様の前に歩んでいくために改めて道を整えていくことが求められているのかもしれません。
Ⅱ.道を整えること
イザヤ57章は、イスラエルの民が捕囚から解放された後、再建に向けて神様が預言者を通して語られた言葉でした。かつて自分たちが神殿を築き、神様を礼拝していた当たり前のような毎日、そして当たり前のように馴染んだあの場所はすっかり様変わりしていました。ここで神様は彼らに、はじめに道を整えることを語られたのです。
それはこれから歩むべき道を整備するだけのことではなく、歩みの妨げとなるものを取り除くことでした。この時の彼らを支配していたのは神様への絶望や不信感、または自身の限界を感じる脱力感だったのではないでしょうか。
私たちもコロナ禍という異例の事態と向き合う際に、あらゆる問題とも向き合わなければなりません。世間では「コロナ疲れ」という言葉があるように、生活サイクルも大幅に変わり、このような状況はいつまで続くのかということを考えれば考えるほど気が遠くなってしまう。そんな思いが、どこか私たちの心をも支配していたこともあったかもしれません。それは気付けば私たちが歩むべき道の石となっているとここで語られています。しかし、そんな考えは不信仰だと神様は頭ごなしにおっしゃるのではなく、自らを低くされて私たちの抱いている不安やそれぞれの思いに寄り添ってくださるのではないでしょうか。
私が妻と結婚したばかりの頃に、お互いの些細な違いによくぶつかっていたことがありました。心配しやすい妻に対して、楽観的な私はそんなこと心配したってしょうがないじゃないかと結論のみでよく話していたことを思い出します。しかし、そこで大切なことはその時の対処法をどうするかということよりも、心配であるという気持ちを理解するということでした。心配や思い煩いが神様の前に立つ時に取り除かなければならないことは自分でも十分にわかっている。しかし、それを一蹴されたまま歩んでいても何ひとつ癒されないという気持ちはこの時の民たちも同じだったのかもしれません。そんな彼らに必要であったのは、自らを低くされた神様からの癒しでした。
Ⅲ.打ち砕かれた者たち
しかし、そのような状況の中にある民たちに対して、神様はへりくだった者には命を与えると語っています。
へりくだるということについて、私は高校生の頃に仕える姿勢を通して考えさせられたことがありました。当時、教会などで奉仕をしている際に、とにかく作業を多くこなした者が優れているという雰囲気の中、私も負けじと必死に動き回っていました。しかし後に私の奉仕の目的が神様のためにというよりも、奉仕している姿を人に見せるためという目的が中心になっていたようにも感じます。そんな自分を嫌ってか、今度は奉仕をする機会から自ら離れてしまったこともありました。しかし、それらはどちらも私にとって神様を第一とした行動なのではなく、むしろ高慢な姿の現れでした。
私たちにとってへりくだるということは、神様にとって私たちがどのような存在であるのかということにも示されているようにも思います。来年度の主題聖句である、ペトロの手紙第一5:6のように神の前に低くさせられるということは、自身が本当に弱く何も持っておらず神様という存在なしには生きていくことが出来ないことを痛感し、それでも私たちを迎え入れてくださる方を喜んで礼拝することを示しているのではないでしょうか。それは、この預言者の言葉を語られた民たちも同じだったのかもしれません。国家も神殿も崩壊した彼らにとって、帰還した時点で何も持つものはありませんでした。それだけでなく、かつては神様の前に幾度となく罪を犯し続け、これからどのように生きていくべきかの希望すら失った彼らは、いと高き聖なるお方の御前に立つことすらふさわしい者ではないくらい、打ち砕かれていました。そんな彼らを大切な存在として迎え入れてくださる方の御前では自然とへりくだった者とさせられるのです。
Ⅳ.「シャローム」に迎え入れて下さる方
ここで、手を差し伸べて下さる神様はもう怒りによって民が苦しむ時は終わりであることを告げます。ここでは「平和」という言葉が用いられています。これはヘブル語で言う「シャローム」です。この知らせは帰還できた民だけでなく、祖国の復興に絶望を覚え離散した仲間たちのもとにも届きます。しかし、この平和という希望はただ、私たちと神様との間の溝を埋めることだけなのではなく、家族として迎え入れてくれることのようにも感じます。後の彼らの歴史を見ても、これまでのように土地を所有して国家を設立するということよりも、外国人に支配される歴史の道を辿ります。ここで彼らに与えられた新しい道として、国土を持たない国家というものがあり得るのではないかとエレミヤは語っています。それぞれ散らされた場所の人々と争うのではなく、その人たちのために祈りなさいと神様は語られるのです。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と神様がアブラムに約束された民の本来の目的へと確かに導いて、神様は国家と人種の壁を取り壊そうとされ、家族としてのシャローム(平和)に迎え入れようとされています。家族とは弱い者、小さい者をまわりが支え合う関係があります。フィリップ・ヤンシーは自身の著書で「家族とは違いを取り繕うことなのではなく、むしろ違いをたたえること」だと述べていました。
冒頭でお話ししたように、私はこの高座教会でわずかながらでも共に奉仕をしたり、信仰の分かち合いができたことを嬉しく思っております。私はこの高座教会に来て、家族としてのつながりがとても強い教会であるという印象を持たせていただきました。みんなで子どもの成長を見守り、互いの霊的状態を分かち合い、そして仕え合う光景がありました。そして、この交わりにわずかでも加えていただいたことを本当に感謝しております。
愛する者のために自らが低くなるという謙遜、そしてこの家族の主人であられる方に、この地上全てをおさめられる王への謙遜というへりくだりがこの「シャローム」から語られているのではないでしょうか。へりくだることを見るとき神様にとって私たちはどのような存在なのかということについて触れさせていただきました。一方で、私たちにとって神様はどのような存在なのかということからも、へりくだるということが見えてきます。マザー・テレサはカルカッタで自身の活動で多くの貧しい人たちと出会う前にまず、1日の始まりの陽が昇る前から主の前に出て祈りを捧げることをしていました。また、訪問者一人一人に「まず最初にこの家の主人ご挨拶をしましょう」と言っていたそうです。私たちはともに集まることが出来なくても、一度立ち止まって私たちを生かしてくださっている方をまず見上げることが出来ます。そんな時、本当の主人であられる方への低い姿勢こそが、ここでも語られているへりくだりなのかもしれません。
Ⅴ.荒野を進む私たち
このコロナ禍という新しい時代によって、あらゆる「当たり前」が崩されてきたように見えます。しかし、神様のなさろうとされることはいつの時代も変わることがありません。むしろ、これから私たちはどのように生きて行くべきかと新しい荒野に立たされているのかもしれません。そこにはかつて馴染んでいた生活様式や礼拝の在り方などの姿はないかもしれませんが、確かにその向こうに神様が私たちを家族として迎え入れてくださる道、そしてこれまで以上の素晴らしい世界が用意されているはずです。そこを進むためには、道を整え、へりくだって神様の御前に立つことです。自分の弱さの中で心から神様に信頼するとき、心から神様に生かされていることを実感し、低い者にこそ神様からの励ましの言葉は語られます。それこそ、神様によって高くされる私たちの姿なのでしょう。この先にある道に期待して、神様と共に歩んでいきましょう。