ほめられることから来る力


2016年10月9日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章13~16節

Ⅰ.生きる上で必要な、7つの基本的ニーズ

今日はファミリーチャペルです。この礼拝では、子育てのこと、家族関係のこと、夫婦のことなどを取り上げながらお話しています。
今年の4月からは、私たちが人として健やかに成長していく上で、何らかの仕方で満たされる必要のある7つの基本的要素があることを学んできました。
その7つとは、①大切な存在であることを知らせること/②安心感をもたせること/③受けいれること/④愛すること、愛されること/⑤ほめること/⑥しつけること/⑦神を教えること、です。
こうした基本的な必要が満たされない時に人は、心の内側に不安が募り、それを不健全な仕方で満たそうとします。その結果、さまざまな問題が生じるのだと言われます。
今日はその5つ目、「ほめること」について考えてみたいと思います。

Ⅱ.親たちに共通する過ちの1つ―子どもをほめないこと

ある心理学者が語っていました。私たち多くの親たちに共通する大きな過ちは、自分の子どもをほめないことだというのです。確かに、私たち自身の子ども時代を振り返ってもそのとおりではないでしょうか。何か失敗をすれば必ずと言ってよいほど叱られましたが、それに比較してほめられる経験は、意外に少なかったように思います。
アメリカで、母親が毎日の生活の中で、肯定的な言葉と否定的な言葉を子どもたちにどれくらいかけたか、という調査をしたところ、何と、否定的な言葉かけが、肯定的な言葉かけのおよそ 10倍であったという結果が出たそうです。そして、この調査を分析した学者によると、子どもにかけた1つの否定的な言葉の埋め合わせをするためには、4つの肯定的な言葉かけが必要だ、という結論が導きだされたというのです。
自分が認められていない、お母さんやお父さんに認めて貰えていない、そのように感じると、子どもは、そうした大人たちからの称賛を得るために、時に、奇をてらう行動に出ることがあります。場合によっては、本当に痛ましい行動へと駆り立てられてしまうということも起こるのです。

Ⅲ.イエスさまの子どもへの対応の仕方

今日はマルコによる福音書10章16節の御言葉をお読みしました。「そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて、祝福された。」
これは、みどり幼稚園の保育において、とても大切にしている言葉です。その理由はイエスさまが身をもって教えてくださった、子どもとの接し方、子育ての基本が説かれているからです。
ここには、子どもたちに対するイエスさまの接し方、その様子を表す3つの動詞が出てきます。「抱き上げる」、「手を置く」、「祝福する」ということです。
これは表現を換えれば、「イエスは子どもたちを愛された」、「子どものニーズに応えてくださった」ということで、その具体的表現が、抱き上げ、手を置き、祝福された、ということでしょう。
これは子育ての基本だと思います。「抱き上げる」とはスキンシップのことですね。子どもたちはスキンシップが大好きです。2つ目の「手を置く」とは、別の言葉で表現したら、「祈る」ということです。そして最後3つ目は、「祝福する」ということ。これはある意味で、教会特有の用語かもしれませんが、意味はその子の存在をほめることです。
こんな話がありました。毎日、お風呂にも入らず汗臭く、あまり清潔でない身体で登校する女の子がいたそうです。担任の先生は、この女の子が、手足が汚くてもそのままにしていることに気付き、この子の心を傷つけないように、ある時、こう言ったのだそうです。「あなた、ほんとうに綺麗な手をしているわね。洗面所で洗って来て、あなたの手がどんなに綺麗か、みんなに見せてあげたら?」と。
今まで、家族からそんな言葉かけを一度も聞いたことのなかった、いや、ほとんど家族に相手にされていなかったこの子は、先生から「あなた、ほんとうに綺麗な手をしているわね」と言われたことが、あまりにも驚きで、しかも嬉しかったのでしょう。すぐに手を洗いに行き、嬉しそうに戻って来て、誇らしげに両手を挙げてみんなに見せたそうです。先生もすかさず、「まあ、ほんとうに綺麗。ちょっとの石鹸と水で見違えるようになったわ」と言って、その子をギュッと抱きしめたそうです。スキンシップしたのです。
この出来事があってから、この子は少しずつ変わっていきました。大きな変化は、お風呂に入るようになり、自分の体を清潔に保つようになってきました。言い換えれば、自分を大切にしていくようになったのです。そして学校の中でも周囲から一目置かれる存在に変わっていきました。
何がこの子を変えたのでしょうか? 答えは簡単です。ほめられたから…です。いかがでしょう? 逆に「駄目だ、駄目だ」と言われて大きくなると、自分を粗末にする子になります。何故でしょうか? それは、自分を大切な存在と思えないからです。どうせ自分なんか大事じゃないと、周囲から刷り込まれた物語をそのまま信じると、そうなってしまうのです。
ところが、身近な家族から毎日「駄目だし」をされて育った子が、逆に、とても「良い子」になる場合もあるのです。どうしてかと申しますと、母親、父親からの承認を得ようと一生懸命になり、大人の顔色を伺い「良い子」を演じ続けることしか、強烈な「駄目だし」を封じ込める方法が見つからないからです。こうした頑張りは「背伸び」をした行動ですから、必ず疲れ、プツンと切れてしまうのは時間の問題でしょう。
聖書の言葉に戻ります。ここで、イエスさまは子どもたちを祝福されました。つまり、ほめたのです。聖書によれば、元々、私たちは尊く、かけ替えのない存在として造られています。だからこそイエスさまはほめたのです。ほめられた子どもは嬉しかったと思います。イエスさまからほめられ、承認されましたから、自分をそのような者として受けとめるきっかけが出来たことだと思います。言い換えれば、そのままの姿で自分を受容できるようになるのです。
イエスさまが子どもたちに対してなさった3つの動作、「抱き上げ」、「手を置いて祈り」、そして「存在を祝福し、ほめること」。子どもたちが人として健やかに成長していく上での大切な基本的な要素であることを、そして、子どもたちに対する私たち大人たちの姿勢であることを教えられます。

Ⅳ.ほめられることから来る力

幼稚園のカウンセラーの大西百合子先生とお話をした時、十数年前に天に召されたお連れ合いのことを、「彼はかっこよかった!」と、本当に自然な言い方でおっしゃるのです。感動しました。その場にいた妻も同じことを感じたようで、帰りの車で2人になった時に、「お父さんも、かっこいいよ!」と言ってくれたのです。普段言われ馴れていないので、照れくさく変な感じなのですが、でも嫌な気はしません。すると本当に不思議なのですが、私の心も大らかになり、妻の良さに目が留まる余裕が出て来ました。
私たちは人にほめてもらうから、人をほめることができる。逆に人からほめてもらえないと、人をほめることが本当に難しいのです。私たちは、「おはよう」と気持ちよく声を掛けてもらうと、「オハヨウ」と返すことができるようになります。
でも、ここで問題があります。それは、私たちの力には限界があるということです。つまり、こちらに余裕のない時には、相手をほめることが難しいのです。ではどうしたらよいのでしょうか。
誰かから「ビタミン愛」を補給してもらう必要があります。それが神さまの愛なのです。
今日、礼拝のはじまりのところで、司式の長老が読み上げてくださった聖書の言葉がそのことを教えています。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一 4:19)
聖書は、誰よりも先にまず神さまが、ありのままのあなたを愛してくださっている、と伝えています。誰よりもまず神さまが、私たちをほめてくださっているのです。イエスさまがそうしてくださっています。あなたに向かって「大丈夫、あなたを愛している」と言っておられます。「あなたの髪の毛の数さえ数え」るほどにあなたを大切に思っている。
「あなたはあなたでいい!」と肯定してくださっているのです。それが少しずつ分かって来ると、子どもたちや他の人に向かってそうできるのです。本当に不思議です。
秋の歓迎礼拝が始まりました。聖書を通して語りかけてくださる神さまのご愛に耳を傾けながら、その同じ語りかけをもって、子どもたちや周りの人たちと接していきたいと思います。お祈りします。

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