まことの命をもたらすために
2017年12月24日
クリスマス礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書62章6~12節
ルカによる福音書2章1~20節
Ⅰ.あらすじ
今日の朗読箇所は2つに分けて読むことが出来ます。この福音書を書いたルカは、前半で、元々はナザレに居住していた妊婦マリアが、何故ベツレヘムで出産することになったのかの理由を説明しています。住民登録がその理由でした。第2の場面では、御子誕生の知らせがどのようにして伝えられ外の世界に拡がっていったのかが出て来ます。羊飼いたちがその知らせの担い手となりました。
Ⅱ.羊飼いのクリスマス
羊飼いは、初めから人口調査の対象外でした。ところが福音書を書いたルカは、神が御子の誕生の喜びを最初に伝えたいと思ったのは他でもない彼ら羊飼いたちだったと伝えるのです。それは、彼ら羊飼いこそが、誰よりもイエスさまを必要とする人たちだったからです。
数にも数えられない人、「お前なんか、居ても居なくてもいい」と人々から見られ、それ故、深く傷つく経験を何度もしてきた羊飼いたちに、神は、御子誕生の出来事を最初に知らせてくださいました。羊飼いたちこそクリスマスの良き知らせを誰よりも必要としているとお思いになられたからです。
イエスさまは、羊飼いたちが近づき易い家畜小屋に誕生されました。
知らせを受けた羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。ルカはイエスさまの誕生に飼い葉桶が使われた理由として、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と伝えています。「場所がなかった」とは「迎え入れてくれなかった」ということです。飼い葉桶のある家畜小屋、それは羊飼いたちにとって馴染みの臭いのする、ホッとできるところだったでしょう。
「近寄りがたい」という言い方があります。それは、相手がそうしたオーラを出しているということもあるでしょう。しかし、近寄る私たちの側に「引け目」や「恐れ」の思いがある時、なかなか近寄ることが出来ないものです。この時の羊飼いもそうでした。住民登録の対象外とされていた人たちでした。もし人々に近寄ったら「お前たち、臭いな! あっちへ行け!」と言って追い返されるような存在でした。
しかしこの時、ベツレヘムの羊飼いたちが育てていた羊は、神殿で奉納物として捧げられる羊でしたから、羊飼いたちは、自分たちを排斥している人々のために汗を流し、野宿をして羊を育てていました。本来ならば感謝されてもおかしくないはずなのに、嫌がられ排斥されていたのです。
御子イエス・キリストは、そうした「引け目」や「恐れ」の中にいる羊飼いたち、そして私たち誰もが、恐れることなく近寄ることができるように、赤ん坊として生まれてきてくださったのです。しかも、羊飼いがやって来た時に、恐れを感じなくてよいように、「田舎の香水」「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして、家畜小屋の飼い葉桶に誕生されたのです。何と優しい神さまなのでしょう!
人は優しくされ、大事にされていることを実感する時、初めて自分と向き合う力が与えられ、自分を大事にすることが出来るのです。みどり幼稚園でよくお話しすることですが、子どもたち一人ひとり、人生の土台を据える大切な時期に、自分は神さまから愛されている存在なんだ、お友達も、みんな神さまから大事にされている一人ひとりなんだ、と知ること。そのことを、教師との触れ合いの中で、日々の保育を通して実感して欲しいと願っているのです。そうすれば決して自分を粗末にしませんし、お友達を大切にする人になります。そして、自分を心から愛してくださる神さまを愛する子どもとして成長していくのです。
そのことを今日の御言葉からも教えられます。神様は弱さや引け目を覚えるような私たちが恐れを感じないで近づくことができるように小さな赤ちゃんとして生まれ、その愛を示してくださいました。
繰り返しますが、本当に不思議です。私たちは愛されていることを知ると、人に優しくなれます。逆に冷たくされると相手を恨み、叩かれたら叩き返したくなる。殴られたら〈いつか見ていろよ!〉と復讐心に燃え、そこから悪の連鎖が始まり、闇は深まるのです。民族や国家のレベルでも同じです。
Ⅲ.闇の中に飛び込んで来られたイエス・キリスト
今年ほど、戦争を身近に感じた年はありませんでした。隣国の北朝鮮の動き、また、トランプ大統領の言動にはいつもハラハラさせられます。そして「平和憲法」と呼ばれ、私たちにとって本当に大切で、誇りでもある日本国憲法の改正の声が大きくなってきています。
今年、中会主催の平和講演会で学びましたが、自民党の憲法改正草案を見る時、国家権力を縛る目的で制定された「憲法」が、国民の権利を制限する内容になっているのです。本当に驚きを覚えます。本末転倒です。
新年度の防衛費も過去最高を記録しました。「抑止力」という言葉を耳にしますが、早い話、ピストルを突きつけて相手を脅し、動けなくしているに過ぎません。恐怖心、猜疑心、腹の探り合いです。
しかし聖書の神さまは、「剣を鋤とし、槍を鎌とし、洪水のように、正義を流せ」とお語りになります。隣国との軍拡競争の土俵から「一抜けた!」と降りてしまい、丸腰になって、相手の真実な心に忍耐強く訴えて行け、と語るのです。
まさに、そのようにして私たちの主イエスさまは、自ら剣や強さを身にまとう代わりに、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:11-12)とある通り、御子は布にくるまっていたのです。この布とは「おしめ」だと言われます。それが救い主メシアのしるしだ、と天使は羊飼いに告げたのです! このお姿の中に、平和の君なるイエスさまが示された、平和の道のモデルが表されているように思います。
「クリスマス」と言うと、何か牧歌的なイメージがあります。でも「現実は?」と言えば、イエスさまの時代も、まさに激動の時代だったと思います。冷静になって考えて見ればすぐ分かります。皇帝の勅令で、身重の女性も有無を言わせず長旅を強いられる時代です。旅先で生まれた嬰児が飼い葉桶に寝かされるような時代です。
また、時の為政者ヘロデの心に生じたちっぽけな「不安」のために幼児大虐殺が行われ、イエスさまの家族も「政治難民」としてエジプトに避難しなければならないような時代でした。そのような意味で闇の深い時代だったのです。その深い闇の只中に御子は誕生されました。
このことをヨハネは彼の福音書の冒頭で、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5新改訳)と書いています。
Ⅳ.まことの命をもたらすために
私たちの信じているお方は、「できないことなど、何一つないお方」です。イエスさまが十字架におかかりになる前日、ある家の2階座敷で、弟子たちの足を洗い、過ぎ越しの食卓を囲み、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「わたしにつながっていなさい。」「ぶどうの木から離れては、何も出来ないのだから」。そして「互いに愛し合うように」と一連のお話をなさいました。そしてその終わりに、イエスさまは次のように言われたのです。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33) イエスさまによる「勝利宣言」です。
私たちは、イエスさまの弟子として、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈り、そのように生活するようにと励まされている者たちです。確かに、この社会の現実、私たちの生活には、神さまの御心とは程遠い現実があります。様々な苦闘があり、苦戦を強いられます。でも、そうしたことを含め、全てをご存じのイエスさまが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と勝利宣言をしてくださっているのです。
あの預言者イザヤが、預言者エレミヤが、そして預言者ミカが預言したとおりに、2千年前のクリスマスに、ベツレヘムに、ヨセフの家系に、マリアの胎を通し、神さまはイエスという名のメシアをお送り下さいました。聖書の預言、聖書の約束が実現したのです。
そして、これからも、主御自身が聖書に記されている1つひとつの約束を必ず実現してくださる。そのことが必ず起こっていくというのです。
2017年を後にして、私たちは新しい年に向かって行くのですが、神さまの御心が、少しでも私たちの周りに、家庭に、私たちのうちに実現する方向に選び取る生き方を求めて行きたいと願います。
来週が今年最後の主の日の礼拝、その翌日から新年です。新しい年、何が起こるか予測は不能です。でも最終的に歴史を支配されるのは、私たちの天のお父さんです。そのことを心に留め、安心して、新しい年を、そのお方の御手から恵みとして受け取らせていただきたいと願います。お祈りいたします。