わたしの願いと神さまの願い
2016年10月23日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章46~52節
Ⅰ.願いを持って生きる私たち
私たちは誰もが願いを持って生きています。私たちが口にする願いや、心に浮かぶ願いとは、とても不思議なもので、よくよく考えてみますと、結構あいまいで、場合によっては、本当に何を願ったらよいかも分からないということもあるのではないでしょうか。
Ⅱ.バルティマイ
今日の箇所には盲人バルティマイが登場します。彼ははっきりとした願いを持っている人でした。ある日、イエスさまが歩いて行かれることが分かると、イエスさまに向かって、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と呼びかけ、叫び続けたのです。周りに居た人々は、そうしたバルティマイを叱りつけ、黙らせようとしています。ところが、そうされても彼はますます激しく叫び続けました。
いかがでしょう。こうしたバルティマイの姿は、悩みを持つ私たちに、もう一度、真剣になってイエスさまに向かって訴え続けるように、イエスさまに向かって祈りを捧げるように励ましを与えている姿のように思います。
今日もこうして礼拝に集いました。目に見ることはできませんが、私たちは、ここにご臨在なさる神さまに向かって賛美を捧げ、聖書の言葉と、説教を通して私たちに語りかける神さまに、心の耳を傾けるために集ってきたのです。そして同時に、私たちの心の中にある願い、それも切実な願いを、イエスさまに向けて祈るために集ってきたわけです。
確かに、私たちの捧げる祈りが、すぐに叶えられるかどうか、神さまによって聞かれるかどうかは分かりません。ただ、イエスさまがお教えくださっているように、私たちの側で出来ることがある。それは、熱心に求め続ける、門をたたき続け、探し求め続けることです。そのようにして、私たちの願いを神さまに知っていただくために、訴え続けることだと思うのです。
今日の聖書の箇所を見ますと、そのように訴え続ける時、場合によっては、そこに妨害や障害物が入り込むかもしれない、ということが知らされます。
「そんなに叫んで何になるのだ」という声が、周囲から聞こえて来るかもしれません。また、「教会に通って、また熱心に祈っても、結局、無駄なんじゃないか」とか、「それはあなたの自分勝手な願いでしょ」など。何も言わないでじっと見ている周囲の人々の心の中の声が、彼らの表情や態度を通して、私たちに語りかけてくるように感じてしまうことがあるのではないでしょうか。
私たちの心の中でも、「これは困った時の神頼みではないか。自分の勝手な願いのために、神さまを利用していいのだろうか」とか。本当に様々な声が心に響き、もうそれだけで疲れてしまうことがあります。
聖書が教える信仰とは、いわゆる「ご利益信仰」とは異質のものです。自分の必要をかなえてもらうための信仰ではありません。ただ、私たちが決して忘れてはならないこと、それは、弟子たちが「祈りを教えてください」と頼んだ時に、イエスさまは何と、「日ごとの糧を今日も与えて下さい」と、毎日の必要を祈るように教えてくださったということです。
バルティマイは目が見えないという苦しみの中にありました。ですから、「主よ、憐れんでください」と叫び求め続けたのです。多くの人々が彼を叱りつけ、黙らせようとしました。でも彼は負けません。祈り、訴え続けたのです。するとどうでしょう。イエスさまが立ち止まってくださったのです。
イエスさまはこのバルティマイの訴えに立ち止まって、ご自分の予定を変更してくださったのです。ご自分の時間をバルティマイのために使い、そして、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。
呼ばれてイエスさまのそばに来た彼に向かって、イエスさまは「何をしてほしいのか」と聴いてくださいます。願い事があるならば、遠慮せず、隠すことをせずに、願うことを残らず話してごらんなさい、と励まし、促す言葉をお掛けになったのです。
バルティマイはそのイエスさまの眼差し、その励ましの言葉に背中を押されるようにして、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエスさまは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って、彼はたちまち見えるようになったのです。
Ⅲ.「悩みの日にわたしを呼べ」
(詩編50:15、口語訳)
旧約聖書の詩編50編15節は、口語訳聖書では次のようになっています。「悩みの日にわたしを呼べ」。
バルティマイと出会ってくださったイエスさまのお姿がここに現われているのではないでしょうか。そして、神さまのお姿が現れているのではないでしょうか!
聖書は神さまの自己紹介の書です。今日の箇所で、イエスさまを通してご自身を示された神さまとは、まさに「悩みの日にわたしを呼べ」と言われるお方そのものでしょう。聖書が示している、私たちの神さまは、「悩みの時には自分のことを呼んでくれ、私が居ないかのようにして悩み続けるな。悩みの時にはわたしを呼ぶのだ」と、願い求めておられるのです。
時に、私の願いと神さまの願いがずれることがあります。ちょうど、子どもの願いと母親の願いがずれてしまうようにです。
でも、神さまは、聖書の中に神さまの願いをはっきりとあらわしておられます。それは、「悩みの日にわたしを呼べ」ということです。
悩みの日に、悩みの時に、あなたが本当に助けてもらいたいこと、してほしいことを、私に向かって祈れ、と言ってくださるのです。
「わたしを呼ぶ」、つまり、「神さま、主よ」と呼ぶということは、「祈る」ということです。あなたの心の中にある願いを、祈りとして表現しなさい。遠慮しないでいい、あなたの願いを私に向かって祈りなさい、と促しておられるのです。
何故、神さまは「悩みの日にわたしを呼べ」と言い、呼び求める者に、イエスさまが言われたように、「何をしてほしいのか」と、そのままに尋ねてくださるのでしょう。
祈る側の私の方に、その祈りを神さまに聞いていただくたけの資格はありませんし、神さまの側にも私の祈りを聞かなければならない義務もないはずです。それなのに、何故、神さまは、「悩みの日にわたしを呼べ」、「何をしてほしいのか」とわざわざ聴いてくださるのでしょうか?
この問いかけに対する聖書が語る答え、それはただ1つ、神さまが愛のお方だからだ、ということだけです。
神さまは、私たちを愛してくださっている。ご自身の独り子をさえ十字架にかけてくださるほどに、私たちを大切な者と受けとめてくださっている。それ以外に答えが見つからないのです。
ある人が語っていました。愛には理由がない、と。神さまは私たちの天のお父さんです。そのお方が「悩みの日にわたしを呼べ」と言ってくださいます。そして、私たちが本当に助けを必要とする時に、「主よ、わたしを憐れんでください」と呼ぶことが許されているのです。いや、神さまが呼ぶようにと願っておられるというのです。これこそが、神さまの願い、イエスさまの私たちに対する願いなのです。
Ⅳ.あなたの願いを祈りに変えて、主を呼び、主に従う人生
最後に、もう一度、今日の聖書箇所を見たいと思います。彼は「道端」にいたのです。社会が彼に与えていた居場所は、人が歩く道ではなく、その端っこでした。イエスさまを見つけ、道端から立ち上がり、「主よ、憐れんでください」と叫びながら道に立った途端、人々は彼を「道端」に引きずり戻そうとするのです。でもイエスさまは違っていました。社会が押し付けてきた「道端」から、道のど真ん中に招かれました。
人間の願いが、神さまの願いと1つになった時、彼の生き方に変化が起こりました。そして新しい、本当に人間らしい人生が始るのです。
盲目の彼が見えるようになったことそれ自体、大変なことなのですが、回復された目で、彼が何を見るか、それはもっと大切なことかもしれません。
この人は、その目でイエスさまを見たのです。道を進まれるイエスさまをしっかりと見て、そのお方から離れることなく、そのお方に従ったのです。
イエスさまに従う人生には、生きる意味があります。慰めと喜びがあり、使命が与えられます。それは、神さまの願いに応える人生であり、神さまの愛に守られる人生です。
あなたの願いを祈りに変えて、神さまに呼びかける人生を歩んでください。そしてイエスさまの歩かれる同じ道の上を、イエスさまに従って歩む人生を進んでください。
それが愛と恵みの神さまに良くしていただいた私たちに対する「神からの願い/神の願い」なのです。お祈りいたします。