わたしはそのために遣わされた


2016年1月3日
松本雅弘牧師
エステル記4章12~17節
ルカによる福音書4章42~44節

Ⅰ.はじめに

 今年最初の主の日の礼拝を、ご一緒に捧げることができます幸いを心から感謝いたします。私たちは礼拝の民として生かされています。今年も主の日ごとに捧げられる礼拝を大事にしながら、ご一緒に歩んで行きたいと思います。

Ⅱ.エステルの場合

 エステル記の時代は、紀元前5世紀、ユダヤ人たちがバビロンに捕囚となり、その後、バビロンからペルシャに覇権が移ります。そのペルシャの王、クセルクセス王の治世の時代に、神の摂理の内にユダヤ人であるエステルが王妃に選ばれたのがエステル記の始まりです。
ある時、国の高官ハマンという人物が、外国からやってきたユダヤ人撲滅を謀るのです。当時、ハマンには政治上のライバルがいました。それは、ユダヤ人であるにもかかわらず王宮に仕える高官モルデカイという人物です。
このモルデカイの実の子のようにして、小さい頃からモルデカイに育てられた女性、それがクセルクセス王の妃として召されたエステルでした。
実はこの時、ハマンは、モルデカイを失脚させたいとの思いから密かにユダヤ人撲滅の企てをしていたのですが、その情報がモルデカイの耳にも漏れ聞こえてきたわけです。
事前にその情報を掴んだモルデカイは祈り考えた末に、1つのアイデアが心に浮かびました。それは王宮にいるエステルを動かし、彼女から直接クセルクセス王にかけあう、ということでした。
この時代、王妃といえどもそうした行動に出ることは許されてはいませんでした。でもユダヤ民族存亡の危機に際し、そのようなことを言ってはおれません。モルデカイは当時の王宮のルールを百も承知の上でエステルにチャレンジしていったわけです。
その時の言葉が、エステル記4章14節です。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と。
そもそもエステルがモルデカイの子として育てられたこと。そしてまた、美しい娘であったという事実。その結果、王妃になったこと。そのタイミングでユダヤ人撲滅計画が発覚したこと等。このように、プラスのこともマイナスと思えることも、このエステル記を読み進めていきますと、全ての事柄が相働いて益として用いられている様子を知らされるのです。
この時、ユダヤ民族撲滅計画を知らされたモルデカイはエステルに言いました。「今、ユダヤ民族を救うことが出来るのはあなたしかいない。この時のためにこそ王妃の位にまで達したのではないか」、つまり「今、あなたが与えられている賜物や恵みを用いて、主の御業のために、立ち上がる時なのではないだろうか」と迫っているのです。
これはエステルに限らず、私たちクリスチャン1人ひとりに当てはまることなのではないでしょうか。私たちは新年礼拝で、神さまの御心を聴く祈りについてご一緒に考えました。
私たちが願う以前に、神さまが私たちに願っていることがある、という事実に目が開かれる必要があります。私たちが偶然、たまたま、と思っている出来事の背後に、実は、神さまの摂理、神さまの御計画がある、ということに心の目が開かれていくことです。
今年も、私たちは家族と共に生活をします。家族の中にはまだ神さまのことを知らない人もいるかもしれません。私たちは、学生としてある学校で学んでいます。会社や職場においてもそうです。そしてまた、ある地域で生活をしています。それら1つひとつは偶然であり、たまたま、かもしれません。しかし聖書は、そこに神さまの必然があると教えます。つまり、偶然、たまたま、そこで暮らしたり、学んだり、仕事をしていることの背後に、実は、神さまがそこに私たちを遣わされたという事実があるのです。
モルデカイはエステルに向かって「今、ユダヤ民族を救うことが出来るのはあなたしかいない。この時のためにこそ王妃の位にまで達したのではないか」と語りましたが、「この時のためにこそ」という、その言葉に込められた神さまの願い、ご計画、御心を行わせるために、私を家族の中に学校や職場に、そして地域に派遣してくださっているのが、私たちの神さまです。
さらに続けて、モルデカイはエステルに語ります。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こる」と。
これは、どういう意味でしょうか。あなたが、そこに遣わされている使命を引き受けないならば、そのことを本当にやりたい、そのことを、本当にやらなければと思っておられる神さまは、あなた以外の別の人を用いて、その大切な働きをなさるでしょう、とモルデカイが迫った、ということです。あなたに与えられている王妃という地位も、また美しさも、実はこの大切な時のために、この大切な働きのためにと、神さまが託された賜物なのだ。だから、もしあなたが、その責任を引き受けず、そのために与えられた賜物を用いないのならば、それらの賜物はあなたから取り上げられ、それを目的のとおりに用いる別の人に賜物自体も託されていくでしょう、というのです。
「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」とは、そうした意味の言葉です。

Ⅲ.イエスさまの場合

 さて、今朝はもう1カ所読ませていただきました。新約聖書のルカによる福音書4章42節から44節の御言葉です。
 イエスさまが祈るためにちょっと席を外したのです。すると、カファルナウムの人々は、イエスさまはどこにおられるのか、と言って必死に探し回ります。そして、「自分たちから離れて行かないように」(42節)と願っています。そして願っただけでなく、「しきりに引き止めた」と聖書に出てきます。つまり、「自分たちが病気になった時に癒してくださるイエスさまがいなくなったら困ります。自分たちが恵まれるために、御言葉を取り次いでくださるイエスさまがおられなければ困ります。自分たちだけのイエスさまでいてください」と熱心に願い、イエスさまをしきりに引き止めるのです。しかし、どうでしょう。私たちの願いもありますが、神さまの願いもあるのでず。私たちが良かれと思って立てている計画もありますが、全き愛と義であるお方が、最善だと考えてお立てになっている御計画が一方にあるわけです。
「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ』」(43節)とあります。イエスさまは、「わたしはそのために遣わされたのだ」と言われ、そして、その言葉の通りに、ユダヤの諸会堂に出て行って宣教をなさったのです。
クリスチャンの抱える難しさは、私の計画と神さまの御計画が1つでない、という場合です。その時、神さまに折れてもらうのか、それとも私の側で折れるのか、ということが信仰者としての葛藤です。色々な願いがあり、ニーズがあります。しかし最終的には、誰によってその場に遣わされ、生かされているのか、という意識を持つ必要があるということです。キリスト教は、これを「召命」と言います。そのことがはっきりしていましたので、イエスさまは、人々の熱心な求めにもかかわらず「優先順位」を付けることが出来ました。

Ⅳ.私たちに託されたミッション

 私たちの週報に、毎週、「高座教会ミッションステートメント」が印刷されています。高座教会とは私たちのことですが、私たちが、この地域で共に集い、礼拝を捧げ、様々なミニストリー、働きを展開しているのは、神さまが願いをもって、私たちを救い、ここに集めてくださったからです。と同時に、この高座教会につながる私たち肢々は、神さまの深い愛の御計画の中で、それぞれの家庭、学び舎、職場、地域に遣わされているのです。
モルデカイが、「この時のためにこそ王妃の位にまで達したのではないか」とエステルに語ったように、私たち1人ひとりが、「この時のためにこそ、家族で最初に洗礼を受けた者として」とか、「この時のためにこそ、この職場の新しいポストに着任した」、また「この時のためにこそ、この大学に合格することが許された」のではないかと受けとめていく必要があるのです。
そしてまた、イエスさまご自身が、「わたしはそのために遣わされたのだ」と言われたように、神さまとの祈りの生活の中で、今、ここに自分は神さまから遣わされているのだという意識、召命を大切にしながら、この年、主に豊かに用いていただきたいと願います。お祈りいたします。

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