わたしは世に勝っている
2020年4月8日
ヨハネによる福音書16章25節-33節
松本雅弘牧師
Ⅰ.ヨハネ16章33節のキリストの勝利宣言
ヨハネ福音書16章25節から33節までで、ここには「キリストの勝利宣言」が記録されています。それを一言でまとめた、結論部分が33節です。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ここで主イエスは、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と言われ、そして、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」とおっしゃっています。
月曜日からヨハネ福音書を通し主イエスの受難の道行きを共に歩んでまいりました。この時、弟子たちはかなり追い詰められた状況にあったと思います。ですから1四章の冒頭で、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と弟子たちに向かってお語りになったということは、裏を返せば彼らが心騒がせていたからでしょう。
さらに、その直前に、ペトロと主イエスとのやり取りが書き記されています。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」という弟子のヨハネの投げかけに対し、主イエスは、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしのことを知らないと言うだろう」ときっぱりとペトロの要求を退けるのです。たぶん、そのようなやり取りを見聞きしながら、今、自分たちの主イエスさまが、ただ事ではない状況に立たされていることを、そこにいた誰もが感じ取っていたのではないでしょうか。そして、そのお方と一緒にいる自分たちの足元にも、実は大きな危険が及んでいることを感じていたのだと思うのです。そのよう場面です。そのような場面において、いったいどうして「平和を得られる」のでしょうか。「勇気を出せる」のでしょうか。その問いかけに対する主イエスの答えは「わたしは既に世に勝っている」ということ、つまり主イエスの勝利の事実がある。その現実に基づく平和であり勇気なのです。
Ⅱ.現在、私たちが直面している状況―コロナウイルス感染症拡大
この時の弟子たちもそうでした。そして私たちもそうです。私たちを取り巻く状況は、今、本当に大変な状況です。3月25日の夜、東京における新型コロナウイルス感染者が急増し、小池都知事が会見しました。翌26日には隣接する神奈川・千葉・埼玉・山梨県知事の会見、さらに翌日は愛知、岐阜の知事の会見が続き、爆発的感染拡大(オーバーシュート)の重大局面を迎えているとのことで、週末の外出自粛が強く要請されました。そして日本政府も対策本部を設置し、21日間の外出制限を伴う緊急事態宣言を発令する検討に入っています。つい1か月前まではなかなか自分のこととしてとらえることが出来なかったように思います。でも社会に景色が一変してしまったように思います。個人で事業をなさっている方が資金繰りに難しさに頭を抱える。3月に入った途端、就職の内定の取り消しの通知を受け、途方に暮れる学生のインタビューもありました。本当に大変なことです。まさに主イエスがおっしゃるように、「あなたがたには世で苦難がある」のです。しかもこれが日本社会だけではなく、全世界を覆っている現実です。
でも、どうでしょう。33節に「しかし」と形勢の逆転を告げる言葉の後に、「勇気を出しなさい」と、主イエスさまは励ましておられるのです。そしてそれは空元気ではなく実体のある勇気です。何故なら「わたしは既に世に勝っている」というのです。
Ⅲ.なぜ、勇気を持てるのか
主イエスは、私たちが心の目をもって見るべき現実を示しておられます。最終的には、主イエスにあって勝利が約束されているという現実です。そして主が勝利された相手とは、「世」です。それは神抜きの「この世」、その世界をつかさどる価値観や物の考え方、またそうした価値観や考え方に拠って立つところの権威の総称として使われている言葉です。
私は、この主イエスの勝利宣言を考えるときに、常に心に浮かぶイメージがあります。それは、あのオセロゲームです。黒と白のチップをゲームボードの上に並べ、自分の色で相手を挟むと、それが自分の色に変わり、最終的に多くを獲得した方が勝利者となる、そのゲームです。オセロゲームは、いかに四隅を自分の色のチップで固めるかでゲームの勝敗は決まります。ゲームの途中で劣勢に見えたとしても、四隅をしっかりと自分の色で押さえていれば、最後には不思議とほとんどのチップが自分の色にひっくり返って来る。
主イエスが、「わたしは既に世に勝っている」という言葉は、まさに私たちの人生の四隅にキリストが立ってくださっている。ですから、その序盤、中盤、終盤で劣勢のように見えるようであったとしても、最終的にキリストの勝利に与ることが出来る。私たちのうちに始めてくださった善い業はキリスト・イエスの日に完成させられると確信している、とパウロが語ったように、全てのものの回復、神の国の完成は時間の問題に過ぎない。何故ならば、主イエス・キリストご自身が、「わたしは既に世に勝っている」と宣言されているからです。
ですから、私たちに出来ることは何かと言えば、その御言葉を信じて、またその御言葉をお語りになったお方を信頼して、この厳しい時期にあっても、顔を上げて、勇気を出して生きる。行き詰っていても、最後は勝利するわけですから、私たちは真剣な中にも心のどこかに余裕やゆとりを持ちながら、歩んでゆくことができるのです。
このことをカール・バルトという神学者は、「究極の一つ手前の真剣さで」、「最後から一つ手前の真剣さ」で生きるという表現を使っていました。これが全てと思ったら、私たちは最高の真剣さで、その働きに取り組まなければならないでしょう。私の努力に全てがかかっているとしたら、必死にならざるを得ません。場合によっては、限界を超えて燃え尽きてしまうだってあるかもしれない。しかし、キリストは、「わたしは既に世に勝っている」、と言ってくださる。ですから、最後から一つ手前の真面目さ、真剣さで、神さまが生きるようにと遣わしてくださっている、家庭や学校や職場において、神さまからの召しとして一生懸命生きるのですが、その働きを最終的に完成へと導かれるのは主なる神さまですから、そのことを信じて、「究極の一つ手前の真剣さで」、事柄と向き合って生きていくのです。そこにおいて、神さまのお働きのお手伝いをさせていただいているからです。
Ⅳ.究極の一つ手前の真剣さで生きる
私たちは、このチャンスをものにしなければ、この試験に合格しなければ、この商談をまとめなければ、そうしたことに命がかかっているように錯覚することがあります。そのような錯覚をさせる判断の基準が、先ほどの「世」の意味でしょう。子どもの頃、受験生の時代は、社会のそうした価値観を鵜呑みにし、どこがエリート高校であるとか、一流企業であるとか、世間的な評価が高いか、ということ自体が、あたかも絶対的価値であるかのように受け入れていた時代があります。昔でしたら、全国画一の共通テストによって番付けに張られた、その秩序が、永久不変の価値を示すかのような、そんな価値観に縛られていたことがありました。世に勝つ信仰、キリストによって勝利された信仰に生きる私たちは、ある人の言葉を使うならば、そうした、この世的な価値基準や法則から自分を切り離し、独立宣言をすることなのです。そして私の本当の価値は、キリストの中に隠されていて、キリストが私の価値を発見してくださっている。神に造られたこと自体の中に、生きる価値が与えられている。言い換えれば、私たちの人生、この世における生活そのものが、すでにイエス・キリストの勝利によって担われ、支えられているからです。
今日の聖書箇所を読みますと、この時点で、主イエスが勝利を宣言されたということは、先ほども少し触れましたが、神さまが始めてくださった働きは、神さまが必ず完成してくださるという約束の中で生きることが許されている、ということです。
洗礼によって神の子とされた。いや、母の胎に居る時から、神さまに守られている。この私自身がキリストに似た者に変えられていくという計画、またその私たち高座教会を通して、この世界に神の国が拡がっていくという壮大な御計画は、表面的にはなかなか進んでいないように見えるときでも、しかしキリストはすでに勝利された。この世界の四隅に復活のキリストが立っておられる。
ヘブライ人への手紙には、主イエス・キリストを指して、「信仰の創始者であり、完成者であるお方」と告白しています。キリストこそが創始者であり完成者である。だから、ご自身が手を付け始めてくださったお働きは、定められた時に、必ず完成させられるからです。
確かに今、私たち自身を見ても、教会を見ても、そしてこの社会全体を見ても、課題の大きさ、多さに圧倒されてしまいます。コロナウイルス感染はいったいいつになったら収まるのでしょう。世界の誰一人として予測できる人はいません。
でも、神はその独り子をお与えになるほどに、ご自身がお創りになった、この世界、私たち人類を愛しておられるのです。だとするならば、すでにこの状況からの救いのために、主は着手しておられる。そして主が手を付けてくださったのなら、手が付けられた働きは必ず完成する。ですから私たちは、勝利を信じて、宣言されたお方を信頼し、究極の一つ手前の真剣さで、主に託されているキリスト者としての自分の命、また責任を引き受けて歩んでいきたい。いや、引き受けて生きることができる。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。お祈りいたします。