キリストの前に喜び集う交わり


2016年2月7日
松本雅弘牧師
コヘレトの言葉4章9~10節
フィレモンへの手紙1~25節

Ⅰ.「 信仰生活の基本」としての主にある交わり(小グループ)に生きること

聖書の神、私たちをお造りくださった神は三位一体の「交わりの神」です。その交わりの神がご自身に似せて人間を創造されましたから、私たちは本質の深くに、交わりの中で初めて人間らしく生きることができるようにと、もともと造られているということでもあります。その交わりとは、神との縦の交わりであり、そしてもう1つ、クリスチャン同士の横の交わり、すなわち「主にある交わり」なのです。

Ⅱ.フィレモンへの手紙の背景

 今日はフィレモンへの手紙を取り上げました。この手紙が書かれた時代は奴隷の身分がありました。そして、オネシモは奴隷でした。ところがオネシモは主人の物を盗みローマに逃亡します。その逃亡先でパウロに出会い、信仰へと導かれました。話を聴けばオネシモは、パウロの宣教の支援者フィレモンの奴隷であったことが分かったのです。当時の習慣によれば奴隷はあくまでも主人の所有物です。ですからパウロは機会を見て、オネシモを主人フィレモンの許へと送り返そうと思い、この「フィレモンへの手紙」を書いたのです。
 私はこの手紙を読み返す中で、パウロの願いの仕方が、実に丁寧であることに気づかされました。パウロは、「どうか、かつての奴隷オネシモを、『奴隷』というよりは、むしろ主にある『愛する兄弟』として迎えて欲しい。そしてオネシモに負債があるならば、わたしが彼に代わって支払いたい!」と願い、そして「オネシモを赦し受け入れるように強制するつもりはない。あくまでもあなたの思いを尊重したい」という姿勢で、フィレモンの自発的な愛の応答を求めています。
また、この手紙から当時の奴隷の置かれていた厳しい状況が透けて見えてくるようにも思います。神さまを信じていると言っても、私たちは、しばしば自分自身の感情の処理がうまく行かない現実があります。「互いに赦し合いなさい」と言われていても、赦せない現実があります。正確な言い方をすれば赦したくない思いがあるのです。そうした土の器としての弱い私たちが抱え持つ現実を踏まえた上で、パウロは、細心の注意を払ってフィレモンに呼びかけていることに、私は深い感動を覚えました。

Ⅲ.主にある交わり(小グループ)としての家の教会の持つ解放の力

この時代、主にある交わりの多くは、「家の教会」と呼ばれていました。大きな礼拝堂があったわけではなく、むしろ家ごとに、クリスチャン同士、その交わりの単位で礼拝が捧げられ、交わりがなされていました。そして、クリスチャンになった奴隷たちの身分を、しばしば「家の教会」単位で買い取り、彼らを自由の身にしていったそうです。
コリントの信徒にあてた手紙の中で、パウロは「あなた方は代価を払って買い取られたのだ」と書いています。自分たちのために「罪の奴隷から贖うために、キリストの命という代価が払われた」のだ。だから、そうした神さまの救いの恵みに対する具体的応答として、教会のメンバーであるが社会的身分としては奴隷である人々のために、当時の教会は実際にお金を出して彼らを自由の身にしていったのだと言われています。現実のローマ社会にあって、このようにして新しい神の国の価値観に生きている人々がいました。そうした交わりがあったのです。それがキリストの教会でした。パウロは、私たちは神の家族同士なのだから、神の前では平等なのだと、このようにはっきりと打ち出しているのです。
いかがでしょうか? 今の私たちにとっては当たり前のことかもしれませんが、2千年前の当時のローマ社会の、いわゆる「家父長制社会」では当たり前ではありませんでした。パウロは、当時の習慣からすれば、決して当たり前でない仕方、すなわち、家族の1人ひとりを、神さまの御前にあって、皆同じく尊い人間、神さまの形に造られたものとして受けとめるようにと呼びかけていることが分かります。
当時、この手紙を読んだ人々にとって、書かれている内容はとても新鮮だったと思います。ものの本によれば、こうした「家の教会」を積極的にリードしていたのは女主人であった、と言われます。しかも、ここでは食事作り、食事の提供だけではなくて、イエスさまとの出来事を話し合うこと、また、「主の晩餐、聖餐」にあずかることも行われていたと記録にあります。ガラテヤ書に、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と書かれています。このとおりのことが実践されていました。
また、ある時イエスさまは、家族とは誰か、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:35)と言われました。そのイエスさまの言葉の中には、「父・お父さん」という言葉が入っていません。それは、「天にいます方」だけを「父」とするからだと言われています。つまり、初代教会の「主にある交わり」の様子を伝える様々な記録や資料を読めば、イエスさまのこの言葉が男性を中心とするローマ社会で、まさに現実として機能していたことが分かるのです。
私たちは、御言葉に促され、人生における「出エジプト」、すなわち、罪の奴隷状態から、あるいは、洗礼を受ける前の古い生き方の奴隷状態から解放されました。そのために、神が用意してくださった神の小羊、イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流してくださったのです。そのようにして、私たちを縛る「古い物語」から自由にされ、神さまを礼拝する者、神さまと人々との交わりを喜び、楽しめる者へと解放されました。そして、このことを常に確認する場、それが、この時代の人々にとっては、「家の教会」であり、私たちにとっては教会の中の「主にある交わり」なのです。

Ⅳ.神の赦しを実体験する場としての主にある交わり(小グループ)

この時、法律に従えばフィレモンは、罰としてオネシモをそれなりに処分してよかったでしょう。しかし、パウロはオネシモを兄弟として愛し迎え入れるようにとフィレモンに執り成しています。しかも、それを口でお願いするだけではなく、自分を代わりに罰し、その人を赦してやってくださいと言っています。私たちが毎週、礼拝の中で祈る「主の祈り」の一節のようです。
このパウロが深く愛し、心から従っていたお方が主イエスさまでした。よく考えて見ますと、このイエスさまこそ、実はパウロが犯した罪を、父なる神さまに赦していただくために、自ら罪の償いとなって十字架にかかってくださったのです。パウロは、このことがよく分かっていました。
私たちが大切にしている「主にある交わり」って何でしょうか。イエス・キリストの罪の赦しの恵みを常に確認し合う場、それが主にある交わりです。イエスさまが命をかけて、「どうか彼らをお赦しください」と神様に願い、私たちの身代わりとして十字架の上で命を捧げてくださった、そのお蔭で、私たちは赦されたのです。
出エジプトの際、イスラエルの民は1歳の羊を殺して家の鴨居にその血を塗るようにと神さまから命ぜられました。そして、その血を塗った家庭は守られたのです。ちょうどそれと同じように、イエス・キリストが過ぎ越しの祭りの小羊として十字架にかけられて血を流し、その血によって私たちを的外れの生き方から救い出そうとされたのです。
「主にある交わり」、それは私たちの心の鴨居にキリストの十字架の血潮が塗られていることを確認し合う場です。その交わりに与った者同志が、キリストの十字架によって愛され、赦されて、新しくスタートを切らせていただいたことを互いに確認し合うようにと、神さまが与えてくださった恵みの場です。そして、私たちがそのことを覚えて生きるために、そして互いに助け、愛し合って信仰生活を全うするようにと、主にある兄弟姉妹、信仰の友が与えられているのです。
フィレモンの家のように奴隷が居るなら、その人が自由な身になれるように。ハンディーを持つ人が居るなら、その人があたかもハンディーがないかのように。外国の人がいるなら、「寄留者」ではないかのように。そして小さな子どもがいるなら、みんなも神さまの子どもなのですから・・。そして社会的な問題と真剣に取り組む人がいるならば、それを共有することができるように。そうした振る舞いや生き方が自然な形で現実に起こる場、それが主にある交わりであり教会なのです。
この交わりを実体験するために、主は具体的な、顔の見える兄弟姉妹を私たちの周囲に置いてくださっているのです。独りぼっちのクリスチャンは居ません。礼拝に来てお仕舞いではなく、ぜひ何らかの仕方で、具体的な小グループの中に一人ひとりが自分の居場所を求めていきたいと願います。お祈りします。

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