キリストを知る喜び


2016年1月17日
松本雅弘牧師
詩編23編1~6節
ヨハネによる福音書2章1~11節

Ⅰ.キリストを知るということ

今日から、私たちの「信仰生活の基本」についてご一緒に学んでいきたいと思います。その第1回目の今日は、「キリストを知り、キリストを伝える」ということについてご一緒に考えてみましょう。

Ⅱ.カナの婚礼

 今日の箇所にはイエスさまがなさった奇跡が出て来ます。場所はガリラヤのカナの村です。名前は出て来ませんが、ある人の結婚式がおこなわれました。そこでイエスさまは水をぶどう酒に変えて彼らの人生の門出を祝福し、メシアとしての最初のしるしを行なわれたのです。
当時ユダヤでは結婚の祝いは1、2週間続き、そこでは、心のこもった料理とぶどう酒が振舞われたそうです。さて、そこに母マリアがおりました。イエスさまと弟子たちは招かれた客であったのに対し、マリアは台所に入って切り盛りする裏方さんでした。
誕生したばかりのカップルはあまり裕福ではなかったのでしょうか、マリアをはじめとする裏方さんたちは最小限の予算を最大限に生かして準備する必要がありました。ところが、計算違いか初めから足りなかったのか、ぶどう酒が底をついてしまうという緊急事態が発生したのです。
当時のユダヤ社会では、ある人の息子が結婚し、その式に招かれた場合、自分の息子が結婚する時には、招いてくれた人を、必ず招待することが厳格に義務付けられていました。しかもその場合、同程度の食卓をもって招待し返さなければならないという習慣があり、それが守られないために訴えられ処罰されたという記録があるそうです。ですから、ぶどう酒が底をつくとは一大事でした。不足したのは事もあろうに一番大切なぶどう酒です。ラビの格言に「ぶどう酒なくば、喜びなし」というものがあったほどですから・・。ただ1つ付け加えますが、当時のラビたちが酒飲みであったということではありません。むしろその逆で、酒に酔うことについてはとても批判的で、ぶどう酒が濃すぎる場合は「3倍の水で薄めるように」と教えていたほどです。
当時は今のようにお茶やコーヒー、様々な清涼飲料水があったわけではありません。水かぶどう酒という、2つに1つの選択しかありませんでした。いずれにしても、ぶどう酒が不足したことは、招いた側にとっても招かれた客にとっても重大事であったことは確かだったわけです。
今まで、様々な出来事を経験してきたマリアは、息子イエスがメシア・キリストであるということを次第に感じつつあったことでしょう。ですから、母親としての極めて自然な感情に導かれるように、もう既に何人かの弟子たちを引き連れて歩く息子イエスが、自分はメシアであることを、1日も早く公言して欲しい、そのことをあらわして欲しいという思いを、心に抱いていたのではないかと思うのです。
ですから「さあ、どうぞ御業を」という思いを込めて、背中をそっと押すように、「ぶどう酒がなくなりました」と言って、イエスさまに水を向けたのです。ところが、これに対してイエスさまは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われたのです。
この言葉を聞いたマリアはショックを受けたかもしれません。でも、そうした私たちの心配をよそに、マリア自身はイエスさまの言葉を、叱責とは受け取らず、言われた通りのことを全てするようにと、召し使いたちに指示を出したのです。そのようにしてイエスさまの御言葉に従った時に、水がぶどう酒に変ったのです。
そして世話役はぶどう酒に変わった水の味見をしました。それがあまりにも素晴らしかったのでしょう。わざわざ主役の1人、花婿を呼び出して「最後の最後まで、よくも最良のぶどう酒を残しておいた」と絶賛しました。水がめ6つ分、1つに80リットルから120リットルほど入りますから、量においても質においても申し分のない最高のぶどう酒だったわけです。

Ⅲ.主のみ業を目の当たりにする

 ここから3つのことに注目したいと思います。
1つは、イエスさまご自身が私たちにとっての最良のぶどう酒であるということです。
旧約の時代は、神の御業を経験しつつも、自らの都合や願いを優先させ、〈いつか従いますから〉と言って神さまを待たせ続けた歴史でした。神さまはそんなイスラエルの民に預言者を遣わし続けます。
今日の聖書を見る時に、この時のぶどう酒こそ、神から次々と遣わされた預言者を表わしているように読むことが出来るのです。神さまは人を愛されたがゆえに、ずっとぶどう酒を差し出し、与え続けてこられました。ところが人は変りません。そこで最後に、最良のぶどう酒であるイエス・キリストを差し出し、人にお与えになったのです。
 2つ目に注目したい点は、そのことの「しるし」である最良のぶどう酒を巡る人々の反応です。ここには様々な人が登場します。マリアと召し使いたち。家の主人、宴会の世話役。花婿と花嫁です。
彼らは水がぶどう酒に変わったことを知りました。しかし、それだけで満足しました。福音書記者ヨハネによれば、彼らは誰一人として、その「しるし」の意味を悟らなかったようなのです。これはちょうど、結婚した相手よりも「しるし」である指輪に心奪われ満足してしまっている状態と変りありません。
しかし水を汲んだ召し使いたちは「しるし」の意味を理解しました。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」(11節)とある通りです。彼らは主に従う弟子となり、主への信仰が増していきました。
 ところで、最後の晩餐の席上、イエスさまは次のようにお語りになりました。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(ヨハネ15:8)。
私たちが、御言葉を聞くだけの者から、御言葉に従って生きる者、主の弟子へと変わる時、私たちが主の御業を目の当たりにするだけではなく、そのことを通して、父なる神さまが栄光をお受けになる、というのです。これが3つ目のポイントです。

Ⅳ.キリストを知り、キリストを伝える者へ

いかがでしょうか。高座教会に集う私たちは、すでに様々な仕方で「ぶどう酒に変えられた水」の恵みにあずかっています。そして、それは神さまの素晴らしさを示す結果であり「しるし」です。 
主イエスは、私たちを恵みの深みへと導きたいと願っておられます。それは、その「しるし」が指し示しているキリストご自身との交わりにあるのです。キリストを深く知るという恵みです。そして、主イエス・キリストと交わることにより、今度は、私という水が、主の奇跡の結果としてキリストに似た者へと変えられるという恵みです。
多くの人々は、イエスさまの奇跡の御業、その御業の結果にあずかります。この時の彼らも、御業の結果としての美味しいぶどう酒を味わうことができました。でも、それだけでした。
これに対して、御言葉に従って水を汲み続けた召し使いたちは、もっと素晴らしいこと、すなわち主イエス・キリストを体験したのです。具体的には、貧しい若いカップルの門出を、水をぶどう酒に変えることによって祝うイエスさまの愛の深さを知ったのです。この結果、イエスさまへの彼らの信頼と愛が深まったことだと思います。
これらのことから、今年、私たちのなすべきことが、はっきりと見えてくるのではないでしょうか。第1に、礼拝や日々の御言葉と祈りの生活を通して、主の御心を求めることです。そして第2に、その御心に従って生きることです。
歴代誌下16章9節に次のような御言葉があります。「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」。
「私が何をしたい」、それを1度、主に明け渡しましょう。次に「主が私に何を願っておられるのか」、そのことを祈り求めましょう。
祈り求めた結果、積極的に証しをするようにと導かれるかもしれません。あるいは、ある習慣を止めるようにと示されるかもしれません。もっと教会の働きに参与するようにとチャレンジなさるかもしれません。教会学校の奉仕を通して「水を汲みなさい」と言われるかもしれないのです。
また、静まる時を確保しなさいと導かれるかもしれません。1人1人に対して導きは異なるでしょう。でも共通することが1つあります。それは、どのような場合であっても、イエスさまは私たちとの親しい愛の関係を通して、私たちに御心を示されるということです。
いつもお話していますが、実を結ばせてくださるのはぶどうの木であるイエスさまのなさることです。それは、私たち枝にとっての責任ではありません。枝の責任は、ぶどうの木であるイエスさまに繋がる、ということです。イエスさまとの関係を深めていくということです。
ぜひとも、私たち一人ひとりが、この1年、主の日ごとの礼拝、また今年のテーマである「御言葉と祈りに生きる」生活を大切にして、主イエスさまとの生きた交わりに生きる1年となりますように。
そして主との生きた関係の中で御心が示される時、この召し使いのように、それに従い「水を汲み」続けましょう。
それによって主の御業を目の当たりにする恵みへ、主ご自身を深く知る者へと導かれていきたいと願います。お祈りいたします。

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