パンを渡された二人
2018年4月29日
春の歓迎礼拝
和田一郎副牧師
ルカによる福音書24章13~35節
Ⅰ.復活の後で
今日の聖書の話しは、横にイエス様がいるのに「えっあなた、イエス様だったのですか?」と、気づかなかった人の話しです。それは、イエス様の十字架の出来事から3日後の日曜日の事でした。イエス様が十字架で死なれたあと、弟子達は落胆していました。3年ものあいだ、寝食を共にしていて、自分たちの国を解放してくれると期待していたイエス・キリストは十字架に架けられて死んでしまったのです。愛するものを失った時、私達はロス状態になるのです。この時の弟子達は「イエス様ロス」の状態で、茫然と過ごしていたのです。ところが3日目の日曜日の朝から慌ただしい事がおきました。イエス様が埋葬されている墓に行った女性達は、墓が空になっているのを見ました。そこに天使が現れてイエス様はよみがえられた、と言われるのを聞いてびっくりしました。さっそく帰ってこの事を弟子達に報告したのですが、誰も信じてくれませんでした。ペトロとヨハネは気になって墓に行って、やはりそこに遺体が無いのを見て驚いて戻ってきました。さらに、マグラダのマリアは「私はイエス様と話しをしました」と言い出します。それでは、そのよみがえったイエス様はどこにいるんだ?というと、誰も分からないのです。このように、情報が錯そうしていた日曜日の朝、弟子達の間では大騒ぎになっていました。
ですがよくよく考えてみると、イエス様は死なれる前にこんなことを言ってたのです。「彼らは私を、鞭打ってから殺す。そして、私は三日目に復活する」と復活の予告を弟子達にしていたのです。ルカ福音書では2回、マタイ福音書では5回、マルコ福音書では5回も「わたしは復活しますよ」と弟子達に預言していたのです。ですから、十字架で死んだ後、それを信じて三日後に復活するのを待っている弟子がいてもいいようなものですが、だれ一人として三日目の日曜日に、復活するのを待っている人はいませんでした。しかし私たちも、大事な人が死んだのだけど、三日たったら「生き返ったよ!良かったね」と聞かされたら喜ぶでしょうか?まず信じないのが普通だと思います。どちらかと言うと、生き返ったら気持ち悪いから、復活まではしなくていいと思います。それは彼らも同じ感覚だったのです。普通に死んだ人が復活するはずがないと思っていたのです。「聖書に書かれている2千年前の昔の人は信心深かったのかな」などと思うかも知れませんが、そんなことはないのです。確かにイエス様は弟子達に、「私は復活する」と言っていましたが、彼らはその辺は何となく曖昧にしていましたし、そもそも復活など望んでもいなかったのです。それが、実際に三日たった日曜日になると、墓が空になっていて、これは復活したのではないか?と弟子達は大騒ぎになっていたのです。 そのイエス様はどこに行ったのでしょう?
Ⅱ.エルサレムから離れていった二人
そんな騒ぎの中で、違うところにいる他の弟子達がいました。それはクレオパと、もうひとりの弟子の二人だったのですが、彼らはエルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。彼らの顔つきは大変暗いものでした。それもそうです、イエス様がつい数日前に死んでしまわれて、自分達の希望は失われてしまったのですから。それはもう、ひどいイエス様ロス状態だったと思います。このふたりの道中の話題はもちろん、イエス様の十字架と死についてでした。ところがそこに、あるひとりの人が近づいて来たのです。そして何食わぬ顔で、「もしもし、一体何の話をしているのですか?」と言う訳です。これを聞いたクレオパ達は、なかばあきれ返ってしまいました。というのはイエス様が十字架に架かったのは、エルサレム中を騒がした大事件で、知らない人は誰もいないほどだったのです。そんな話しをしていても、相手がイエス様だと二人は気づかないのです。二人はエルサレムに残っている弟子達のように「イエス様が復活したのだろうか?」と慌てているのとは別に、エマオの町にある自分たちの家に向かっていました。イエス様が復活したのかどうか、もうそんなことよりも自分の生活に気持ちが戻ってしまったのでしょう。信仰の目が失われてしまって、目に見える現実に心が移ってしまっていました。二人は、横にいるイエス様のことも、ただの人にしか見えなかったのです。信仰の目というのは、目に見えない大切なものを見ようとする心の目です。二人にはイエス様の、目には見えない大切な価値が見えませんでした。
私たちは仕事や勉強、子どもの世話、人付き合い、身内の病気や親の介護。わたしたちを取り巻く生活は、このようなことが沢山あって自分が埋もれてしまいそうになります。
エマオに向かっているこの二人も、エルサレムから離れて、自分の家に向かっていたということは、自分の生活にもどって、イエス様の復活よりも大切に思える何かの用事が沢山あったのでしょう。話しをしている相手がイエス様だと気づかずに、二人は歩いていました。
ところが段々と思いがけない雰囲気になっていきます。それはこの人が聖書にやたらと詳しいのです。キリストは苦しみを受けてから蘇られるっていう事を、聖書の中から順番に解き明かしていかれたのです。それを聞いたこの二人の弟子はもう、その話しに夢中になってしまって、とうとうその人に、「今夜は一緒に泊まってください」とお願いするまでになってしまいました。
Ⅲ.あの時のイエス
エマオという町の二人の家で、イエス様は食事をとることになりました。エルサレムに行ってしばらく留守にしていた家には、たいした食べ物はありません。しかし、イエス様が手を伸ばして、パンを取りました。するとパンを手に持ちながら賛美の祈りを唱え始めたのです。二人はどこかでこの光景を見たように思いました。そうです、あの五千人もの人が山の上でイエス様の話しを聞いていた時、みんなお腹をすかして困ってしまった時に、イエスは少年が差し出した五つのパンと二匹の魚で、そこにいた五千人を満腹させる奇跡をなさいました。あの時のイエス様の仕草や声と同じです。イエス様はあの時と同じように、パンを裂いて、裂いたパンを二人に手渡しました。その手には痛々しい釘の傷跡が残っていたはずです。この時も自分たちが差し出した僅かな食事を、より豊かなものとして与えてくださった。「あなたはイエス様ですね? 本当に復活されたのですね?」それが分かった途端、イエス様の姿は消えて見えなくなったのです。
イエス様だと分かった後の二人の反応を見て欲しいと思うのです。時を移さず出発して、仲間がいるエルサレムに戻っていったのです。もう夜になっていました。どれだけ二人にとって衝撃的だったのか?ということです。衝撃の理由は「復活したイエス様」に出会ったということです。人間がもっとも恐れる死というものを打ち破って、復活して生きている方となったのです。 それは当時の人にとって望み通りの救い主ではなくて、想像をはるかに超えた偉大な力、終わることのない恵みを意味していたのです。
復活は蘇生することとは違います。一旦生き返って、またいつか亡くなるということではなく、永遠に続く命のお方がずっと生きていて、今も生きて日々パンを裂いて私たちの必要を満たしてくださる。私たちの日々の生活の中で、一緒に歩くべき道を歩き、導いてくださる方が、復活されたイエスキリストです。
Ⅳ.一緒に歩いている人を見失わない
今日みなさんにお願いしたいことは、自分の人生は自分一人で歩いていると、思わないで欲しいということです。今日の話しで、エマオの町に向かって行く二人に対して「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」とあるように、イエス様は向こうの方から来て一緒に歩いて下さる方です。ですから自分しかいない、自分だけでいい、最後は自分だけが頼りだと思わないで欲しいのです。一歩外にでると、私たちは周りの声に惑わされます。「どうせ自分しかいないんだぞ」という声を聞くと、それに引っ張られて、一緒に歩いている、イエス様を見失ってしまいます。しかし、すぐ近くにいて、それもいつまでも、永遠にそばにいてくださるのが、復活の主イエス・キリストです。イエス様の方から離れて行くことは決してありません。この方が与えてくださる日々の恵みに感謝して、離れずに繋がり続けて、人生を歩んで欲しいと願います。 お祈りをします。