主にあって一つとなる

松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書17章1―26節
2021年11月14日

Ⅰ.はじめに

2020年がスタートして間もなく、今まで経験したこともない世界的なパンデミックに襲われました。改めて、この2年間を振り返ると、今まで出来たことが出来なくなり、大事にしてきた霊的習慣、たとえば日曜日に礼拝を守ること、また小グループ活動もそうですが、バラバラと崩されていくような寂しさをも感じます。
そのような中で、来年、2022年の教会の活動テーマは「主にあって一つとなる」というテーマで、主題聖句は、ヨハネ福音書17章23節を掲げることになりました。今日は来年の主題聖句を含む、ヨハネ福音書17章からご一緒に御言葉に聴き、新しい年度を迎える備えをして行きたいと思います。

Ⅱ.私たちのために執り成された祈り

ところで、ヨハネ福音書第17章は、最後の晩餐の席上、それに引き続き、主イエスが父なる神さまに執り成している祈りの言葉、一般に「大祭司の祈り」と呼ばれます。
実は、私自身、ヨハネ福音書17章を読むたびに、感謝な思いにさせられることがあります。それは「また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします。」(20)と主イエスが、私たちがイエスさまを知るずっと前から、いや生れる前に、すでに私たちのために、父なる神さまに執り成しの祈りを捧げてくださったという事実です。
ここで「彼らについてだけでなく」の「彼ら」とは、ここに居た弟子たちのことです。聖書は、彼ら11人の弟子たちを「使徒」と呼んでいますが、使徒の職務の大切な一つは新約聖書を書き残すことにありました。そう考えますと「彼らの言葉によって私を信じる人々」とはこの後、宣教に遣わされていった使徒の働きによって導かれた者たち、および、使徒が書き記した聖書の言葉を通して信仰をもった者たちのこと、そうです、私たちのことです。これは何と嬉しいことでしょう!まず私たちは、この事実を心に刻み、そうしてくださった主イエスに心から感謝したいと思うのです。
そうした上で、この執り成しの祈りを注意深く読んでいくと、この執り成しの祈りで繰り返し祈られているテーマが見えてきます。それはが、来年の教会活動のテーマ「一つとなる」ということです。

Ⅲ.一つになること

ところで、この「大祭司の祈り」を読む時に、具体的な執り成す祈りは6節からであることが分かります。さらに、その祈りを注意深く見て行きますと、「一つにしてください」という祈り、「一つとなるためです」といった表現を含め、「一つ」という表現が、この短い箇所に5回も出てきます。11節に1回、21節に1回、22節に2回、そして23節に1回です。このことから二千年前に、これから信仰を持つであろう私たちのために執り成された祈りの中心が「一つになる」ということであることが明らかです。
さて教会の歴史を振り返る時に、この点において多くの困難を経験してきました。数多くの教派が存在しているのもその一つの現われです。では、どのように一つとなるのでしょうか?例えば、私たちは何か同じことをすることによって心を一つにすることが出来ます。「同じ釜の飯を食う」ことが大事なことです。しかし21節の祈りを見ますと、主イエスは、時間を共に過ごす以上のこと、組織的な一致以上のことを問題にされています。「霊的な一致」を求めておられるのです。
では、具体的にどのようにそうした一致をいただくことが出来るのか。「彼らも私たちの内にいるように」ということです。信仰者である私たちが主イエスにある神との交わりにとどまり続けること。キリストの愛にとどまり続けること。それが私たちの交わりにとって、高座教会がこれからも一つになっていく道。これが教会一致の生命線だ、と言うのです。
説教の準備をしながら、コリントの教会にあてて書かれたパウロの言葉を思い出しました。コリントの教会はパウロの宣教によって設立されたギリシヤに建てられた大教会でした。人材に恵まれ大勢の人が集う豊かな群れでしたが、残念ながら教会内に不一致がありました。それぞれの才能や賜物、また持ち味を、お互いの足りなさを補うように用いる代わりに、どちらが上か下かと比べ合い競争し合っていたのです。その結果、愛の心は冷め、批判的になり、互いを厳しい目で見ていく問題があったのです。
パウロはそんな教会の仲間たちに向かって、人と人との交わり、人と人とのつながりのことを人間の体にたとえて説明しました(Ⅰコリント12章)。
交わりを形作る個々の人の体を構成する器官や部分に例えて説明した上で、体のある部分が、別の部分に向かって、「お前は要らない、とは決して言ってはなりません」と戒めています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要」で、「体の中でつまらないと思える部分にかえって尊さを見いだします」と語っています。
確かに体の各器官は有機的一体性があって、どの器官一つが失われたとしても、大変なことになってしまいます。言い換えれば、体には全くの無駄な器官がないということでしょう。それと同様に教会はキリストの体で、私たち一人ひとりが各部分に該当する。ですから、誰ひとり「お前は要らない」と言われるような存在の人はいない。だからこそ、「お前は要らない」とは、決して言ってはならない、口にしてはいけない言葉だと語るのです。
もう少し、この点について深めてみたいと思います。「お前は要らない」という言葉を使わなくても、そのような意味の言葉がふと心に浮かんだとするならば、それはサタンからの囁きです。サタンの狙いは、〈あの人は要らない〉と思わせるだけではなく、最終的には〈「お前は要らない」と言い放つこの私も実は要らない人間なのだ〉と思わせてしまうことです。〈私は欠けだらけ。生きる価値のない人間なのだ。何をしても失敗する。こんな私を誰が大切にしてくれる。誰もいやしない…〉。そこまで持って行こうとするのがサタンです。しかし聖書は、〈あの人は要らない〉と思われる人のために、キリストは十字架にかかられ、主イエスというお方は全ての人を祝福したいと願っておられることを教えます。
ヨハネ福音書に戻りますが、主イエスが祈られた主にある一致は、それだけで終わるものではありません。一つとなることを通して、「世は、あなたが私をお遣わしになったことを、信じるようになります」(21)。一致することを通して主イエスが証しされ、伝道になる。そして来年の主題聖句も全く同じことが繰り返されます。
よく、「救いとは、創造の回復だ」と言われます。神さまが意図した本来あるべき人間の共同体を具現したのが教会だ、というのです。教会は単なる仲良しグループの集まりではありません。気の合った者同士の集いでもない。カンバーランド長老教会の信仰告白によれば「神は宣教の為に教会をお建てになった」のです。
神さまが、私たちをあるがまま、そのままの姿で受け入れて愛してくださった。その愛に支えられて、本当の自分を見出し、神の創られた本来の私たちへと解放されていく。そのような交わりは、教会外の人々にとって大きな魅力となるはず。宣教力を持つ交わりとなる、というのです。

Ⅳ.まとめーキリストの愛にとどまって

2022年は、このキリストの執り成しの祈りに支えられて、主との親しい交わりの中にとどまり続けることを祈り求めていきたいと思います。コロナでバラバラになり、交わりが緩んでしまうのではなく、むしろ主にあって、いよいよ一つになるように、共に主イエスを見上げて歩んでいきたいと思うのです。
主イエスは、既にこのような祈りを執り成してくださっていました。いや、この直後に、この祈りを実現するために、キリストは十字架に向かわれたのです。私たちが眠っていた時ではありません。意識的に敵対している時、キリストは体をはり、命を捧げ、私たちのために執り成してくださった。それが十字架であり、その命を張った執り成しの祈りが「大祭司の祈り」です。
私たちが不安を持つ時、不安で眠れない時、まどろむことなく見張っておられる主がおられることを覚えましょう。私たちがどう祈ってよいか分からない時、聖霊が言葉にならないうめきをもって私たちの為に執り成してくださいます。
この先行的恵みに支えられ、この恵みの中に共にとどまりつづける時に、私たちは高座教会という信仰共同体として、キリストに在って一つにされ、キリストの証人として立たされていく。その為にも、キリストが父なる神の愛にとどまりつづけたように、私たちもキリストの愛にとどまりたい。キリストというぶどうの木につながる私たち一人一人でありますように、そのことを心にとめ、新しい2022年を迎える準備に入っていきたいと願います。
お祈りいたします。

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