主に願いなさい
2016年11月20日
松本雅弘牧師
詩編44編1~27節
マタイによる福音書9章35~38節
Ⅰ.マタイ9章35節の位置づけ
今日、お読みしたマタイによる福音書9章 35節の御言葉にイエスさまの働きが紹介されています。実はこの言葉とそっくりな表現が4章23節にもあるのです。マタイは、イエスさまがいつもなさっていた働きを4章と9章に同じ言葉で繰り返すことで伝えようとしています。
そして、もう1つ大切なことがあります。それは、この後の10章1節から12人の弟子を選ぶ記事が出て来ます。イエスさまは「あらゆる病気や患いをいやす」権威を12弟子にお与えになり、さらに彼らに命じて「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われたのです。
マタイはイエスさまの御業を同じ言葉で繰り返しつつ、その御業をイエスさまのお働きだけに限定せず、イエスさまがお選びになった弟子たちが担っていることを伝えているのです。イエスさまの働きを弟子たちが引き継ぎ、それを今、教会が、つまり、私たちが行っているということを伝えているのです。
そのような意味で、私たち日本の教会が、日本で生活している人々のために何をどのようにしたらよいのか、と立ちどまって考える時、その原点、出発点となる言葉が、今日の9章35節に記されているように思うのです。
Ⅱ.教会の業―イエスさまと同じ働きをする
注解者たちは35節をめぐって、もう1つ大切な視点で議論しています。それは、そもそも今日の箇所がどうして34節までの出来事に続けて書かれているかという視点です。
35節以前の箇所には一連の癒しの出来事が記されています。ヤイロの娘と出血の止まらない女性の癒し、2人の盲人の癒し、そして口の利けない人の癒しの記事と続きます。
ここで私たちが注目しなければならない点、それは何かと言えば、イエスさまがこれほど心を込めて愛の御業をなさったにもかかわらず、御業を目撃した人々は、イエスさまのことを正しく理解することがなかったという事実です。別の言い方をすれば「人々の愚かさ」です。
イエスさまは私たちの愚かさを見抜くお方です。ところが、そうした人々の愚かさとイエスさまはつき合ってくださるお方のように思うのです。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って、イエスさまを悪霊の仲間扱いしたファリサイ派の人々に対して「なんて馬鹿なことを言う」と反論されてもよい場面でした。でも福音書は、イエスさまはそうなさらなかったと伝えます。
イエスさまは悪をもって悪に報いることをなさいませんでした。そのイエスさまがなさったこと、それが35節から出てくるのです。
今まで通りに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」ということです。つまり、イエスさまはなすべきことを成し続けておられたのです。
Ⅲ.深く憐れまれる神
それでは、こうした愚かさの中にある人々をイエスさまはどう見ておられたのでしょうか? それが36節にあらわされています。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
「深い憐れみ」をもって見ておられた。「深く憐れまれた」のです。ギリシャ語によると「はらわた」、「内臓」です。その内臓が痛むという言葉です。
私たちも時に激しい同情によって胸が熱くなることがあります。しかし、内臓が痛むほどに同情を寄せることがあるでしょうか? どこかで防衛反応が働き、これ以上、感情移入するとマズイと思い、少し手前のところで、のめり込まないようにセーブするのではないでしょうか。
ところがイエスさまは、ご自分をセーブすることなく行くところまで行きました。つまり深く憐れまれたのです。イエスさまのことを悪霊呼ばわりする人々の無理解、愚かさに囲まれながら、そうした人々を馬鹿にしたり軽蔑したりすることをせず、愚かなことしか言えないような、そうした行動しかとれないような人々の惨めさに、ご自分の肉体や心が切り刻まれるような思いを抱かれたということです。これが、「イエスは、……深く憐れまれた」という言葉の意味なのです。
はらわたがよじれ痛むほどに共感し愛を注ぐ神さまという存在を、当時の人々は知りませんでした。当時の人々は、そうした姿と神を結び付けて考えたこともなかったのです。新約聖書はギリシア語で書かれています。この「深く憐れむ」というギリシア語「スプランクニゾマイ」は、ギリシア語を話すギリシア人たちが、決して自分たちの神を表わす際に使うことがなかった言葉です。何故ならば、心を痛めてしまうような神はもうその時点で「神」とは呼べないからです。
神ならば全てを超越していなければならず、自分に悩みを負わせる者によって自分自身が振り回されてしまっていたら、もうその時点で神としては失格である、と考えていたからです。
ギリシア人のこうした考え方は、私たちにも相通じるところがあるのではないでしょうか。
自分以外の他者の悩みや苦しみが、自分の生活の中に入って来て取り乱すことがないように、私たちはどこかで、全面的に感情移入しないように、自分を抑える傾向があるのではないかと思います。
イエスさまはそうなさいませんでした。イエスさまは、はらわたが痛むほどに憐れみ抜かれたのです。人々の愚かさを御覧になり、ご自分自身の心を痛め、さらに踏みにじられるに任されたということでしょう。ギリシア人からしたら、これは神として失格だったのです。しかし、こういうイエスさまだからこそ、私たちはそのお方の許に畏れなく、助けを求めて、赦しを求めて、恵みや憐れみを求めて、近づくことができるです。
ギリシア人は、そんなに深い憐みの思いを抱いたら、神が神でなくなってしまうと主張します。確かにそうかもしれません。でも、本当の神は私たちの想像を超えるお方だったということを、パウロもフィリピの信徒への手紙2章6~8節で書いています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず・・・人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6~7)
イエスさまは、深い憐れみに生きられました。神の御子がこの世にお生まれになり、しかも一番汚い飼い葉桶の中に寝かされました。最初の礼拝者はなんと人口調査の対象外の羊飼いたちだったのです。不安にさいなまれたヘロデ王に追われ、エジプトで難民生活を強いられた。シリアの難民と同じ境遇です。
大人になったら大人になったで、人々から苦しめられ続けられた。そして最後、十字架につけられて殺されていく。これほどまでに神らしくない神は一体どこにいるでしょうか?!
十字架に磔(はりつけ)にされたイエスさまを見た人々の中に、こんなことを言う人が居ました。「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と。
考えてみれば、この発言は理屈が通っています。でもイエスさまは、そうなさらなかったのです。そのような意味で神であることにこだわらなかった。むしろ、ご自分を無にして「深い憐れみ」の中、ご自身の肉体が裂かれるほどの愛に生きてくださったのです。
聖書が語るイエス・キリストの神は、そういう愛の神さまなのです。私たちの愚かさやののしりに対し、悪をもって、そうした悪に報いることをなさらず、かえって、深い憐みをもって私たちを愛してくださったのです。
それほどまでに憐れみ深く生きることができるのは、真の神さまを他にしては考えられないのではないでしょうか。私たちは、そのようなお方として、イエスさまを神の子として信じ、崇めるわけです。そしてそうした神さまの御子イエスさまの姿が、今日お読みした、この聖書の箇所にも現れていると思うのです。
Ⅳ.主に願いなさい
こうしてイエスさまは、人の愚かさを深く憐れみ、彼らが飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て憐れんでくださいました。
人間的に見れば悲惨な絶望的な光景です。でもイエスさまは、ここで「収穫が多い」時なのだ、と言ってそこに希望を見ておられるのです。困難が大きい時こそ、これは収穫の前触れなのだと、イエスさまは目に見える状況のさらに向こうを見ておられるということです。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われ、12人弟子を選ばれ、働きを託されたのです。
私たちもこのイエスさまに従い、そのお働きの一端を担いながら歩ませていただきたいと願います。お祈りします。