主の道を備えるために
松本雅弘牧師
イザヤ書40章1-11節、マルコによる福音書1章1-8節
2019年12月1日
Ⅰ.主の再臨を待ち望むために
今年も待降節がやって来ました。待降節はキリストの降臨であるクリスマスの恵みを思い巡らすと共に、そのキリストの「再降臨」、約して「再臨」を待ち望む季節でもあります。
Ⅱ.あらすじ
福音書記者マルコは、前置きに時間を費やすことをせずに「神の子イエス・キリストの福音の初め」と切り出します。
マルコは、イエス・キリストの到来こそ、その方の存在こそが、「福音」、「良き音信そのもの」なのだと大胆に宣言するのです。そして預言者たちの言葉を引用しながら、荒れ野に出現し「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えるヨハネこそが、メシアの先駆けとして遣わされた者であることを明らかにし、彼の宣教活動の様子を報告するのです。
ヨハネは、自分の後に本当に「優れた方」が来られると伝えます。そして自分がしていることはそのお方のために道を備えることなのだというのです。その具体的な道備え、それこそが、主イエスに洗礼を授けることであったのだ、と福音書記者マルコは語っているのです。
Ⅲ.「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」という御声を祈り求める
今日は洗礼式が行われます。洗礼者ヨハネが、主イエスの道備えの最初の務めとして洗礼を授けたように、今日の方たちも洗礼を受け、新しい歩みをスタートするわけです。
では受洗するとは一体どのような意味があるのでしょう。ここで洗礼者ヨハネは、「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言いました。
ヨハネから洗礼を受けた主イエスの上に、聖霊が鳩のように降って来られ、天から次のような声がありました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)。
これはどういうことでしょうか。受洗は、主イエスの命である聖霊をいただくことの目に見える印ですが、同時に私たちの心の深いところで「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声をしっかりと聞きとることでもあるのです。
ところが現実には、受洗後も神の愛を実感できないでいることがあります。その理由は、私たちの中にある「偽りの物語」が原因しているからだと言えるでしょう。
一般に私たちは、人間の価値はその人が成し遂げたことによって決まるという物語を信じているようです。先日、テレビを見ていましたら「ハイスペック男子」とか、「スペックの高い人」という言葉が使われていました。本来の「スペック」とはパソコンや機械などの客観的に判定、評価できる構造や性能を意味する言葉ですが、それが人に転じて「能力が高い」という意味で使われるようになったようです。ですからスペックの高さとは、その人の価値に比例するという風潮があるようです。これは主イエスの時代の「律法主義」です。神さまに愛され、喜ばれるためには、愛されるに値する、喜ばれるに値する理由を私の側にたくさん積み上げる必要があると言う考え方です。
同じ出来事を記したルカ福音書では、主イエスが「洗礼を受けて祈っておられると」という表現があることに心が留まりました。「洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神がその祈りに応えるようにして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声をかけてくださったとあるのです。
これは本当に大事なことを教えているように思わされます。つまり私たちが神さまに愛されていることを実感する恵みは、ちょうどこの時の主イエスがそうなさったように、私たち一人ひとりも、神に祈り求めるべき恵みであるということです。
私は自分の今までの歩みを振り返る時に、本当にマイナスの言葉を浴びるようにして大人になって来たなとつくづく思うことがあります。我が子に対してもそのようにしてしまっている自分を情けなく思うことがよくあります。
その結果、特に自分の中のマイナスの面、弱いところと上手く向き合うことができない。例えば弱さや足りなさを見せつけられるような場面に出くわすとどうするか、見て見ぬ振りをし、場合によっては競争や競い合いを始めるのです。いちじくの葉っぱ」を貼って、他人よりも自分を大きく見せようとします。でも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。あなたは大切な人です」という言葉に触れると、不思議と「自分は自分でよい/私は私」という思いにさせられるのです。
あるクリスチャンは、こう語っていました。
「私たちは愛されている者です。両親や教師、結婚相手や子どもや友人が、私たちを愛したり、傷つけたりする、そのはるか以前から、私たちは深く愛されています。これが私たちの人生の真理です。その真理を、あなたも受け取っていただきたい。それは『あなたはわたしの愛する子』という言い方で語りかけてくれる真理です。
しっかりと心の耳を澄ませてその声に聴き入ると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。『私は、はるか以前からあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの、私はあなたのもの。あなたは私の愛する者、私はあなたを喜ぶ。私はあなたを地の深いところで仕組み、母の胎の内で組み立てた。私は手のひらであなたを形造り、私の懐に抱いた。私はあなたを限りない優しさで見つめ、母がその子を慈しむ以上に親しくあなたを慈しむ。私はあなたの頭の毛をすべて数え、あなたの歩みを導く。あなたがどこに行こうと、私はあなたと共に歩み、あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。…』」と。
一日が終わって、床に就く時、その日一日を振り返って後悔することがあります。〈何故、あんなこと言ってしまったのだろう。あのような事をしなければよかったな。〉〈あの時、ああ言えばよかった。〉
結構、幾つも幾つも心に浮かんできます。でも、そうした時に、主の御前に静まり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、主のこの語りかけに耳を澄まします。すると不思議な力や慰めをいただく。どんな失敗をしたとしても神の子としての私の価値に傷がつくことなどない、ということを知らされるからです。
洗礼を受けたということは、そのことをはっきりと自分のこととして聞くことであり、神さまを信じて歩み始めるということは、常にそのように語りかけてくださるお方の前に立ち返っていくことなのです。
Ⅳ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける
主イエスは十字架につかれる直前に、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネ15:5)。
そうお語りになった後「父のところから助け主なる聖霊を遣わすのだ」と約束されました。
受洗し、神の愛の語りかけを聞き続け、本当の意味で喜びに満ちた信仰生活を送ることを願うならば、ぶどうの木であるキリストに繋がることが大切です。たとえ洗礼を受けても主イエスから離れるならば、聖書で約束されている様々な恵みは絵に描いた餅です。何故なら「私を離れてはあなたがたは何もできないからだ」と言われるからです。
真の意味で私たちの信仰生活を恵みで満たし、教会を豊かにするものは何かと言うならば、それはキリスト教的活動が活発になることではなく、主イエスとの生きた関係がそれだけ太くなるか、親しくなるかにかかっている、ということなのです。
洗礼を受けるということは、主イエスの命である聖霊が、私たちの心に宿られることを表わしていることを、覚えたい。この「宿る」ということは、単に「お客さまとして滞在する」のではなく、「住みつづけ、生活を共にする」という意味の言葉です。
結婚して感じたことですが、他人同士が生活を共にすることによって何が起こるでしょうか。似てくるのです。場合によっては顔つきまで似てきます。それはともかくとして、主イエスの霊である聖霊が宿って下さり、聖霊と共に暮らすならば、次第にキリストに似てくるのです。
私たちには幾つもの生活の場があります。〈この顔は見せたくないので、イエスさま、ちょっと向こうをむいていてください〉と言いたくなることもあるかもしれない。
でも信仰生活はこの逆なのです。ぶどうの木に繋がったり離れたりしていては、実を結ぶ暇もありません。聖霊は私たちの内側に宿られるお方ですから御言葉を通し、心の扉を開くようにと語り続けて下さる。生活の全領域で、聖霊なる神さまと共に生きることを願っておられる。
私たちは、そのようにして聖霊に満たされていくのです。置かれている状況が厳しくても、そこに主イエスが共におられる時、本当の平安が心を包み込むように、どんな環境にあっても聖霊が共におられるので、本当に心強い。
「キリストにつながる」とは、そういうことです。そのように、主が私にとっての道となってくださるように祈り求めていきたいと願います。
お祈りします。