主の道を備えるために

2017年12月3日
第1アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書40章1-11節
マルコによる福音書1章1-8節

Ⅰ.主の再臨を待ち望むために

今年も待降節がやって来ました。「待降節」は「降臨を待ち望む季節」と書きますが、2千年前にキリストはすでに降臨されました。
私たちにとって待降節は、キリストの降臨であるクリスマスの恵みを思い巡らすと共に、天に戻られたキリストが再びやってくる「再降臨」、「再臨」を待ち望む季節でもあります。

Ⅱ.あらすじ

この福音書を書いたマルコは、さまざまな前置きの文章に時間を費やすことをせずに、イエス・キリストの到来、この方の存在こそが、福音「良き音信そのもの」なのだと、大胆に宣言するのです。そして、ユダヤの荒れ野に現れ「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えるヨハネという男が、メシアの先駆けとして神さまによって遣わされた者であることを明らかにしていきます。
ヨハネは、自分の後に本当に「優れた方」が来られると伝えます。自分は、当時奴隷の仕事であった、その方の履物のひもを解くこともさせていただけないほどに優れたお方なのだとヨハネは語ります。そして、自分がしていることは、そのお方のための道を備えることなのだというのです。
福音書記者のマルコは、そのヨハネが行ったこと、その道備えこそ、他でもない、主イエスに洗礼を授けることであったのだと語っていくのです。

Ⅲ.「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」という御声を祈り求める

今日、高座教会でも洗礼式が行われます。洗礼者ヨハネが、イエスさまの道備えの最初の務めとして、イエスさまに洗礼を授けたように、今日、ここで洗礼を受ける方々も、新しい歩みをスタートするわけです。
洗礼を受けるとは、どのような意味のある出来事なのでしょう。今日の箇所を見ますと、洗礼を受けたイエスさまの上に聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声があったと伝えます。
洗礼を受けるということは、イエスさまの命である聖霊をいただくことの目に見える印です。そして同時に、私たちの心の深いところで、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声をしっかりと聞きとることでもあるのです。
しかし現実には、洗礼を受けた後も、神さまに愛されている実感が乏しいということがあるのではないでしょうか。それは私たちの中にある、子どもの頃から刷り込まれた「偽りの物語」が原因しているからです。ひと言で言えば、それは「成果主義」です。「人の価値は、その人が成し遂げたこと、獲得したことによって決まる」という考え方です。
これが信仰に当てはめられる時、神さまに愛されるには、愛されるに値する理由を、私の側にたくさん積み上げる必要があるという考え方に導かれていくのです。
この同じ出来事を記したルカによる福音書によれば、イエスさまが「洗礼を受けて祈っておられると」、その祈りに応えるように、父なる神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声をかけられたとあります。
神さまに愛されていると実感できる恵みは、この時、イエスさまがそうなさったように「祈り求めるべき恵み」であるということです。これは本当に大事なことだと思います。
自分の今までの歩みを振り返る時に、私は、本当にマイナスの言葉を浴びるようにして大人になって来た人間だとつくづく思うことがあります。我が子に対しても、そのようにしてしまっている自分を情けなく思うことがよくあります。自分の中のマイナスの面、弱いところと上手く向き合うことができないのです。自分の弱さと直面させられる時、その弱さを隠そうとし、あるいは「いちじくの葉っぱ」を張るようにして、良く見せようと頑張ってしまう自分があります。
しかし、そのような者ではあっても「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「わたしにとって、あなたは大切な人です」という言葉に触れる時だけは、「私は私」という思いに整えていただけるのです。
あるクリスチャンは、こう語っていました。「私たちは愛されている者です。両親や教師、結婚相手や子どもや友人が、私たちを愛したり、傷つけたりするはるか以前から、私たちは深く愛されています。これが私たちの人生の真理です。その真理を、あなたも受け取っていただきたい。それは『あなたはわたしの愛する子』という言い方で語りかけてくれる真理です。しっかりと心の耳を澄ませてその声に聴き入ると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。『私は、はるか以前からあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの、私はあなたのもの。あなたは私の愛する者、私はあなたを喜ぶ。私はあなたを地の深いところで仕組み、母の胎の内で組み立てた。私は手のひらであなたを形造り、私の懐に抱いた。私はあなたを限りない優しさで見つめ、母がその子を慈しむ以上に親しくあなたを慈しむ。私はあなたの頭の毛をすべて数え、あなたの歩みを導く。あなたがどこに行こうと、私はあなたと共に歩み、あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。・・』」と。
一日が終わって、床に就く時、その日一日を振り返って後悔することがあります。〈何故、あんなこと言ってしまったのだろう。あのような事をしなければよかったな〉。〈あの時、ああ言えばよかった。〉
結構、幾つも幾つも心に浮かぶことがあります。時には、取り返しがつかなくなるような失敗をしでかすこともあります。そういう時に、主の御前に静まり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、主のこの語りかけに耳を澄ますのです。すると不思議な力や慰めをいただくことができるのです。どんな失敗をしたとしても、神の子としての私の価値に傷がつくことなどない、ということを深く知らされるからです。
洗礼を受けるということは、そのことをはっきりと自分のこととして聞くことであり、神さまを信じて歩み始めるということは、常にそのように語りかけてくださるお方の前に立ち返っていくことなのです。

Ⅳ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける

イエスさまは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語られました。洗礼を受けた後、心から喜びに満ちた信仰生活を送ることを願うならば、ぶどうの木であるキリストにつながることが必要です。そして、その恵みの結果として、妻が夫を愛し、子が親を敬うという、具体的な信仰生活が展開してくるのだと聖書は説いています。
また洗礼を受けるということは、聖霊が私たちの心に宿られることを表わしています。この「宿る」とは単に「お客さんとして滞在する」のではありません。「住みつづけ、生活を共にする」ということです。
私たちには幾つもの「生活の場」があります。そして、それぞれの場に合った私の顔があるかもしれません。家での顔、職場での顔、学校での顔、友だちといる時の顔、教会での顔、と色々な顔を持つ私がいるでしょう。
場合によっては〈この顔は見せたくない〉と思うような顔をして生きる場所もあるかもしれません。〈イエスさま、ちょっと向こうをむいていてください〉と言って、私の方からぶどうの木との繋がりを断つことはないでしょうか。
信仰生活とはこの逆なのです。ぶどうの木に繋がったり離れたりしていては、実を結ぶ暇もないことになります。
聖霊は私たちの内側に宿られるお方ですから、御言葉を通して心の扉を開くようにと語りかけ続けてくださいます。私たちの生活の全ての領域で、聖霊なる神さまは共に生きることを願っておられます。そのようにして、私たちは聖霊に満たされていくのです。
聖霊に心の王座を明け渡していく時、必ず起こることがあります。それは、聖霊が聖書の言葉を用いて、口を挟んでこられるということです。聖霊と共に生きる時、御言葉と祈りを通して、私たちの生活の隅々に具体的に介入してくださるのです。
その結果として、多少、やっかいなことが起こるかもしれません。〈妻に謝りなさい〉、〈夫を尊敬しなさい〉、〈この働きを始めなさい〉、〈こういう時間の使い方をしなさい〉等、具体的な導きをお与えになるからです。
それは時に、私の願うことではないかもしれません。しかし、聖霊は私たちを愛しておられるキリストの霊です。私たちの最善を願っておられるお方です。
イエスさまが共におられる時、平安が私の心を包み込むように、御言葉を通しての語りかけに従って歩んでいく時に、聖霊は、私の心に住み続けてくださる助け主なるお方であることを知るのです。
置かれている状況が厳しくても、どんな環境にあっても、聖霊が共におられるので、私は本当に心強いのです。「キリストにつながる」とは、そういうことです。聖霊なる神さまの助けによって主が私の道となってくださるように祈り求めていきたいと願います。お祈りします。

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