交わりへの招待

2018年2月25日
和田一郎伝道師
出エジプト記18章5~12節
ヨハネの手紙一 1章3~4節

1 宣教の目的

「交わり」という言葉は、いわゆる人と人との付き合いや、交友関係を意味しています。今日の聖書箇所でも「交わり」という言葉が3回出てきますが、ここで使われる原語の言葉は、よく耳にする「コイノニア」というギリシャ語です。
たとえば、礼拝の最後で祈る祝祷も「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが・・・」という、「交わり」もコイノニアです。わたしたちの信仰において、神との関係、人と人の関係は意味深いものですから、一般的な付き合いとか交流とは少し区別して、コイノニアという言葉を「交わり」と訳して使います。
このヨハネの手紙を書いたヨハネという人は、イエス様と、特に深い繋がりのあった人でした。イエス様の公生涯で12弟子の一人としてイエス様と過ごしましたし、ヨハネの福音書やヨハネの黙示録を書いた人です。有名なのはレオナルドダヴィンチの最後の晩餐の絵の中で、イエス様と寄り添っていた人です。イエス様もこのヨハネに、自分の母親の世話を頼むほどに信頼を寄せていたようですから、この手紙の冒頭で書かれていることは、リアリティがあります。
ヨハネの手紙一1章1節には、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とあります。ヨハネは弟子として、イエス様とユダヤの町々を旅して生活をしていましたから、その頃に自分が聞いた、目で見た、そして手で触れて一緒にいた。そのイエス様について証しして伝えると言うのです。
ここではイエス様のことを「いのちのことばについて」と表現しています。ヨハネは福音書でも、同じようにイエス様の事を「言葉」と表現しています。そして、そのイエス様が、「初めからあったもの」とあるように、「天地創造以前の初めから」いた方であること。天におられた存在なのに、地上に降りて来られ、しかも私たちと同じ人間となられたイエス・キリストという人を言い表しています。
ヨハネも一緒に過ごしていて、自分のような罪人であるにもかかわらず、直接触れ合っていた方に「本当の命」がある、私たちを救う「永遠の命」があることが分かった、「だから今、このイエス様のことを、あなたがたにも伝えます」と言っているんです。
注目したいのは、ヨハネが、なぜ私たちにイエス様のことを伝えようとしているのか?その理由です。3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも、わたしたちとの交わりを持つようになるためです」。ここで交わりという言葉がでてきます(コイノニア)。イエス様のことを伝えるのは、「交わりのため」と言うのです。私ヨハネは、イエス様と親しい交わりの関係にありました。素晴らしい交わりです。ですから、あなたがたもこの交わりの中に招き入れたい、そのためにキリストを伝えるのですと言うわけです。その交わりとは、一体どんなものでしょうか。

2 「交わり」という神のビジョン

私たちは、人と人との繋がりを大切にしているつもりですが。クリスチャンは「大切なのは自分と神様の個人的な問題だ」と思いやすいので、交わりは優先順位の低いことと考えてしまう時があるのではないでしょうか。しかし、神様は教会の交わりというのは、決して二次的なものではなく、むしろそれは、神様ご自身が求めている大事な「ビジョン」であると、新約聖書の様子から見ることができます。
ヨハネの手紙を書いた頃のヨハネは、随分高齢になっていましたが、若かりし日々のヨハネが、まだエルサレムにいた頃ですが、使徒言行録で「交わり」についての神様のビジョンを見ることができます。それは、キリスト教会が誕生した時、教会は、ペトロの説教で信仰告白をした3千人の人々によって始められましたが、彼らがキリストを信じて洗礼を受けた後、直ちに取り掛かったことは何でしょうか。それは「交わり」です。もちろん、礼拝も、聖書の学びも、祈りもしました。ですが、それと同時に行なっていたのは「交わり」です。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒2:42)とあります。使徒の教えは、使徒たちによる証しや教えです。パンを裂くことは現在の聖餐式の原型ですが、儀式のようなものではなくて、食べたり飲んだりしながら、最後の晩餐を思い起こして楽しいものだったでしょう。
続いて46節「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒言行録2:46-47)
ここに描かれている様子そのものが、「交わり」なのです。礼拝すること、学ぶこと、祈ること、すべてが「交わり」と共にありました。若かりしヨハネ達がそんなふうに「交わり」を熱心にしていたことによって、ある現象が起こりました。47節「主は救われる人々を、日々仲間に加え一つにされた」。
エルサレムにいた人々は、喜びに満ちたクリスチャンの交わりに、引き寄せられるように、教会に繋がっていったのです。
この時から50~60年が過ぎて、ヨハネがこの手紙を書くころには、地中海周辺の諸国でクリスチャンが急激に増えていきました。その要因はいくつかあるようですが、その一つはここにあるように、教会の交わりが豊かにあって、周囲の人に影響を与えていったというものです。当時の社会は差別が当たり前のようにありました。男女の違い、身分の違い、病気や障害への差別、小さな子ども達は虐げられていた。その中で教会の交わりには、差別ではなく「喜びと真心をもって一緒に食事をした」とあります。世の中には格差や差別がありましたが、教会の交わりには喜びがあり、そうして教会は各地に広がっていったのです。

3 交わりの核心にあるのは 「喜び」

教会の交わりの大切さは、どなたでも認識していると思うのです。教会の礼拝や集会に集まること、「集まること」はその人の信仰告白だと言えます。しかし、義務感や責任感で集会に集まるというのは、使徒言行録にある「交わり」に照らしてみると違うようです。
「交わり」の核心にあるのは「喜び」という要素があって、それが差別に苦しんでいた人々を教会に惹きつけたというのが「コイノニアの力」です。それは交わりの中に喜びをもたらす神様の性質を現わしているのです。
私たちの信じる神様は、三位一体の神様です。三位一体というのは、父・子・聖霊の三つの神が交わって初めて一つの「神」であるのです。「交わりの神」である、という信仰を私たちは持っています。その神様の性質には、時として怒りや憤り、悲しみという感情もあります。しかし、それは一時的な反応であって、神の中心的な性質は「愛」です。愛が満たされている所に「喜び」があります。天地を創造された神様は、1週間を毎日「夕べがあり、朝があった。」そして「良しとされた」と、喜びをもって一日を終えていました。私たちのように繰り返される毎日を「ああそんなの当たり前」と片付けずに、良いものを良いと喜ばれる方です。その神様に似た者として造られた人間が、神様と同じように「喜ぶ者」として生きられることを神様は願っています。
イエス様も「ぶどうの木」の話しをされましたが「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である・・・わたしに繋がっていなさい」と話された時も、「これらのことを話したのは・・・あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ福音書15:11) と、「喜ぶこと」が目的だと言われました。「交わり」の核心には「喜び」という要素があることが分かります。
このぶどうの木の話しを、書き残したのはやはりヨハネですが、今日の聖書箇所の4節でも、同じように「喜びが満ちあふれるため」と記しています。ヨハネはイエス様との喜びのある交わりの中にいました。この交わりの中にあなたも入りなさい。とヨハネは実体験から、私たちに語りかけてくるのです。
それでも、痛みや苦しみのあるこの世の中で、いったいどうやって喜べばいいんですか?という疑問もあると思います。それに対して、カール・バルトという神学者はこう言いました。「喜びは、苦しみや恨みに『それにもかかわらず』と言って待ったをかける、挑戦的なものだ」。
自然に喜びが湧いて来るのを待っていたら、なかなか喜べません。困難があったとしても、それにもかかわらず今ある恵みに気付くのか、気付かないのか?この信仰の挑戦の向こうに喜びが浮かんできます。
今日は信仰生活で大切にしたい、「主にある交わりに生きる」ことについて、御言葉から考えてきました。神様の視点からこの「交わり」というものを考えてみると、そこに「喜び」という神様の性質と、「喜びなさい」という私たちへの「愛」が反映されています。
私が喜ぶこと。友が喜ぶこと。神様が喜ぶこと。この事を交わりの中心に添えて、この一年の交わりを味わって行きたいと願います。お祈りをいたします。

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