仕える者となる

松本雅弘牧師
マタイによる福音書20章17節―28節
2019年11月17日

Ⅰ.復活の勝利の予告

今日の箇所には、主イエスの3回目の受難の予告が出てまいります。前の2回と比べると、この予告には特徴があります。これまではただ「殺される」と言っていたのに対し、今回は、はっきりと、十字架につけられ、神に呪われた罪人として殺されることが明言されています。そして、最後に主は「人の子は3日目に復活する」と復活の予告を続けてお語りになりました。

Ⅱ.厚かましい願い

さてそこに、復活、勝利の予告をしっかり聞き取った人々がいました。ゼベダイの2人の息子ヤコブとヨハネ、そして母親です。その3人が主イエスのところに願いをもってやって来ました。ただ最初はなかなか言い出せません。あまりにも厚かましく、恥ずかしく感じていたからでしょう。すると主の方から「何が望みか」と尋ねてくださったのです。
そこで初めて母親が口を開きます。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。主イエスの両側に座ることができるように「子どものためならば…」といった、そうした母親の姿です。
ひとつ確認しておきたいのですが、この後「偉い」という言葉が出て来ます。原語では「大きい」という意味です。この時、母親と2人の息子が願ったことは神の国で大きい存在になりたいということで、少なくとも主イエスはそうした願いを退けず、むしろ肯定的に受けとめておられるようなのです。
当時ユダヤ人たちは会堂に集まって真剣に議論するテーマがありました。それが神の国で大きくなるのにはどうしたらよいか、ということだったそうです。ただ誤解してはいけないのは、それは世間の基準で大きくなることではなく、神の眼差しが注がれているところで大きくなるということです。
そう考えれば母親の願いは当たり前の願いであったかもしれない。しかし、そこにも彼女たちが気づいていない落とし穴がありました。主は、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節)と言っておられます。
主イエスは、あなたの願いは聞き入れた。でもあなたは自分が願っていること、つまり私の傍らにいて最も大きな存在になるということの意味が分かっていない。それは私の杯を飲むことなのだ、とそうおっしゃったのです。
ところで主の言われる「杯」とは何しょう。それは苦い杯です。これから受けようとしておられる十字架の苦しみです。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」という、主の問いかけは、「神の怒りに触れることができるか/神の怒りを身に受けて苦しむことができるか」という意味の問いかけでした。
神の怒りに触れたら人間はひとたまりもなく吹き飛んでしまう。そのような私たちのために、主ご自身がしなければならないこと。そうです、ご自分の十字架の死を語っておられるのです。「あなたがたは本当に、この私と支配を共にしたいと願うのか。それは素晴らしいことだ。でもその事が一体何を意味しているのかを分かっているのか。私と同じように死ねるのか」とおっしゃったのです。
主イエスの問いかけに2人は「はい、できます」と答えました。この言葉に彼らなりの覚悟があったでしょう。でもその意味するところを理解していなかった。その証拠に主イエスが実際に杯をお飲みになった時、彼らは仲間の弟子たちと一緒に一目散に逃げてしまったからです。そして、皮肉にも。最後の時、主イエスの十字架の右側と左側にいたのは、彼らゼベダイの子たちではなく、2人の強盗でした。
誰ひとり、主イエスの「杯」を飲むことはできなかったのです。ですからある神学者はこのことを解説して次のように述べています。「ゼベダイの子らの母は、知らずして自分の子たちの死を願っている。それを主は受け入れられた」と。
使徒言行録、そして黙示録を読みますと、確かに、ヤコブもヨハネも殉教の死を遂げていくことが分かります。

Ⅲ.仕える者となる

さて、他の10人の弟子たちが登場します。彼らは一連の出来事を聞いて、「俺たちを差し置いて、いったい何を言うのだ」と腹を立てました。彼らも同じことを考えていたのかもしれない。
そうした弟子たちに向かって主イエスはこうおっしゃったのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかし、あなた方の間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(25b-27)
ここで一般社会の価値観と神の国の価値観が対比されるのです。世間は「力のある人が上から支配し、偉そうな人が威張っている世界」です。
これに対し「私の弟子になったら、反対のことをしなさい」とおっしゃるのです。この時、主イエスが言わんとしているのは、それ以上のことでしょう。下から仕える究極の姿、それが主イエス・キリストの十字架へ至る歩みだということです。
ここではっきりと主イエスは言われます。「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」。そして、その主イエスの弟子である私たちは、そのお方に従うこと、そのお方に倣う者として召されているのです。

Ⅳ.神がまず愛してくださったから

ただ、このイエスの言葉は、そのまま、殉教を意味するのでしょうか。確かに、26節、27節を見ますと、「皆に仕える者になり、…皆の僕になりなさい」とお語りになりました。
勿論、主イエスの十字架と同じことを私たちがするのではないことは確かでしょう。ではどのように、主イエスに倣う者として生きるのか。最後にその点に触れて終わりにしたいと思います。
そのヒントが28節にあります。ここで主イエスは、私が多くの人の贖いとして「自分の命を献げる」のと、ちょうど「同じように」と語っておられます。
それと「そっくり同じような奉仕」をあなたがたはする、「そっくり同じ奉仕」があなたがたにはできる、と言われるのです。
いかがでしょう。これは恐れ多いこと、「そんなことはとんでもない」と思ってしまいます。しかし主イエスは、そうした私たちの言葉を跳ね返すように、「あなたがたにはできる。私とそっくり同じことをする」と約束しておられることを心に留めたいと思うのです。
今日は「2020年の活動方針」を配布しました。主題聖句は、ヨハネの手紙一 4章19節、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」という御言葉です。
私たちが奉仕する、仕える。聖書の言葉に言い直すならば「愛する」ということでしょう。
私たちが愛する、愛せるのは神がまず愛してくださったから。ですから、大切なことはこの愛に触れること。そしてこの愛を実感したなら、それと同じ愛に、必ず生かされることになる。
主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げる」と言われました。この「多くの人」の中に私たちが入っています。私たちが贖われるのです。ここにいる私たち自身が、怒りの杯を飲まなくても済むのです。それは、主イエス・キリストが十字架上で贖いの死という杯を飲み干してくださったから。そしてそのことを通して、主イエスは、私たちに仕えてくださったのだ、というのです。
「仕える」ということを考える時、私たちの最大、最高の奉仕は、今日ここでささげている礼拝です。ご存知のように礼拝のことを英語で「サーヴィス」と言います。私たちが仕える者として、サーヴィスに生きる者として、まず心から主を礼拝する。そして礼拝で示された御心に生きるようにと、それぞれの隣人に仕える者として派遣されていくのです。
今日の主イエスの教えに先だって、私たちはぶどう園の労働者のたとえ話を聞いてきました。後から来て、ほんのちょっとしか働かなかった人も、最初から、一日中働いた人も、みんな神さまの御前に大きな者として、大きな報いをいただくことができる。キリストの支配するところにおいては、右も左も、上も下もありません。みんな大きい。みんな尊い存在として御前に生かされ、主イエスの交わりの中に生きることが許されているのです。
そのようにして主からいただく愛によって、今度は私たちが、身近なところで、主イエスがしてくださったように生きることができるのです。
勿論、生きることは時には辛いことでもあります。愛することも骨の折れることです。でも不思議と、私たちも、主に倣って、仕えるようにされていくのです。なぜなら、神が、まず私たちを愛してくださったから。主が私たちに仕えてくださったからです。お祈りします。

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