何を求めて生きるのか

2017年10月29日
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ペトロの手紙一2章1~6節

Ⅰ.白黒はっきりしたキリスト教?

今日の聖書箇所の1節は「悪意、偽り、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」とあります。この手紙を書いたペトロは、その代わりに「霊の乳」つまり、「聖書の言葉」に従って歩きなさいと教えています。人間の悪意や偽りを捨て去るというのは、本当に難しいと思います。そして聖書の御言葉を求める生活を実践することもなかなか難しいと思ったりします。クリスチャンになる以前の「罪にあった生活」から、「新しくされた生活」へと、白黒はっきりと変われるものでしょうか。聖書の言葉は、時として曖昧さを許さない、厳しさを感じることもあるのではないでしょうか。
今年は宗教改革500周年の年。10月31日が宗教改革記念日で、500年前のこの日にドイツのマルティン・ルターは、カトリック教会の腐敗に対して、『95ヶ条の提題』を張り出しました。この時から、わたしたちプロテスタント教会は生まれました。ルターは教会の権威を退けて「聖書のみ」と、聖書だけに権威があるとしたのですね。 唯一、一つだと白黒はっきりさせます。
この手紙を書いたペトロも、イエス様に問いただされました。「わたしを愛しているか?」と3回も問われて、愛しているのか?愛していないのか?どちらなのか迫る厳しさがありました。キリスト教というのは、白黒がはっきりしていて、他の神様を認めないし、冷たく感じるという人の声も聞きます。しかし、今日の聖書箇所の2節のところでは「成長しなさい」と教えているのです。そうか、私たちが成長するのを見守ってくださるのだと、あらためて思いました。成長するまでの間、未熟な私も認めてくださるという、「幅」がある。未熟な自分でも、ここに居ていいのだと思ったのです。

Ⅱ.人間の善と悪

日本人は曖昧で融通のきくものが好きです。白黒はっきりさせない文化があると思います。わたしは時代小説の池波正太郎のファンです。『鬼平犯科帳』などの江戸時代を描いた池波作品の、どこが好きなのだろうか考えました。人間には善と悪があります。その矛盾した両面があって、人間は矛盾した生き物なのだということを肯定的に描いています。『鬼平犯科帳』の主人公は幕府の役人で、盗賊を捕らえるのが仕事ですが、役人の中にも「悪」があり、盗賊の中にも「善」があります。こんなセリフがあります。「人とは、妙な生きもの。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。心をゆるし合う友をだまして、そのこころを傷つけまいとする」。それが人間だと言うのですね。
聖書は、神様と人との関係の中で「契約」とか「律法」というものがあって、なにか白黒はっきりさせて、裁かれているように聞こえてしまうこともあります。しかし、父と子のような家族的な関係であるというのが、一番相応しい表現だと思います。ですから「悪意、偽り、ねたみ、悪口」という罪の性質を捨てきれないでいる、善と悪を持つ未熟なわたしたちの成長を待ってくださる、父のような存在。それが、神と私たちの関係なのだとあらためて思いました。

Ⅲ.アガペーの愛(ヨハネによる福音書21章15節―19節)

ですから、先ほど触れたペトロとイエス様の「わたしを愛しているか」というヨハネの福音書のところにも、ペトロがまだ信仰的にも弱かった時に、ペトロの信仰の成長を期待して待ち続けるイエス様の父のような眼差しがあったと気づかされます。先日、東京基督教大学学長の小林高徳先生が天に召されましたが、先生にこの聖書箇所を教わりました。
復活したイエス様が「わたしを愛しているか?」とペトロに問います。「はい」と答えているのに、また「私を愛しているか?」と3度も繰り返すところです。日本語では同じ「愛するか」という言葉を3回となっていますが、原文ではイエス様が「わたしを愛しているか?」と聞いた最初の2回は、ギリシャ語の「アガペ」という言葉でした。アガペは「神の完全な愛」という意味で使う言葉の「愛」でした。しかし、3回目は「フィレオ―」と言葉を変えたのです。神の完全な愛より少し落として、友だちとの友愛という意味です。アガペの愛はヨハネの福音書では、「友のために自分の命を捨てる愛」だと、先生は言っていました。しかし、ペトロはイエス様を知らないと言って、自分の命を惜しんで逃げました。ペトロは勿論その事を忘れられませんでした。命をかけてアガペの愛を示せなかったペトロに「わたしを愛しているか?」と問うたイエス様は、そんな裏切ってしまったペトロを、そのまま受け入れる愛を示されたのですね。イエス様は私たちのために、命をかけてくださいました。小林先生は、わたしたちは、そのキリストの愛には及ばない。それでもアガペの愛を示したくださった十字架の業(わざ)に、私たちの希望があると教えてくださいました。

Ⅳ.この主のもとに来なさい

わたしたちは「悪意、偽り、ねたみ、悪口」といった、罪の性質を捨てきれない、未熟な存在です。それでいて善をなそうとする、善と悪が一体となった矛盾した存在です。
クリスチャンと呼ばれる人は、成熟したからクリスチャンと呼ばれるわけではありません。罪の性質と不完全な愛をもったままで、それを、十字架で捨てられた方に持って行きなさいと言っているのです。
4節「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い生きた石なのです。」とあります。「主」というのはイエス様です。イエス様は、人々からは見捨てられて十字架で死なれました。その人に自分の罪の問題を持って行きなさいというのです。イエス様は、民衆から「イエスを十字架にかけろ、十字架にかけろ」と、罵られて十字架で死なれました。よってたかって十字架に架けろ!と叫んだ民衆の罪は、わたしたち人間の罪の象徴です。このイエスキリストが十字架に架かられた犠牲の上に、私たちの救いがあるのです。それはわたしたちの罪を背負って、十字架に架かられたからです。イエス様が死んで陰府に下るのと一緒に、私たちの罪も葬り去られた。しかし、イエス様は陰府の底から、死を打ち破って復活されました。今もこの世で私たちと共に存在している、そして「この主のもとに来なさい」と呼びかけているのです。

Ⅴ.隅の要石(かなめいし)

聖書では、いろいろな所でイエス様のことを「石」と表現していて、4節のところでは、「生きた石」「尊い石」と表現しています。日本では、家の建物の要(かなめ)になっているのは大黒柱ですが、当時のユダヤでは、家は石造りですから、家の要になるのが隅の要石(かなめいし)という石でした。建物の重みを支えるために、念入りにどの石にするのか、選ばれました。家を建てる大工さんが、別の工事で念入りに選んだ時には捨てられた石が、後になって別の家を建てるために立派に役立った、それも永遠に揺るぎない大事な石となったという、どんでん返しを、イエス・キリストの事に譬えています。
イエス様も、人からは捨てられ、侮られ迫害されましたが、十字架と復活を通して揺るぎないものとなりました。主イエスは人々から捨てられましたが、今は人々をしっかりと支える要石(かなめいし)です。
「この主のもとに来なさい」というのが今日与えられているメッセージです。仕事でも学校でも家庭でも、人との関係には難しさがあります。その問題の本質は人の罪の性質です。清く正しい人だけが、キリストの下に来なさいと、呼ばれているのではない。主イエスキリストのもとに、罪を差し出していくのが、わたしたちを新しい自分にしてくれる、唯一の道です。この道を歩くためには、混じりけのない霊の乳である聖書のみ言葉を、日々、毎日味わうしかありません。しっかり受け止め、大きく、豊かに、その無限の恵みを味わってください。
最後に6節を読みます。6節は、神様は御子イエスキリストを、やがて来る私たちの未来に置くという、イザヤ書の預言のみ言葉です。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石をシオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」お祈りしましょう。

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