信仰の冒険

松本雅弘牧師
イザヤ書30章15-22節
ルカによる福音書1章26-38節
2020年12月6日

Ⅰ. できないことは何一つない神が、なぜ?

今日の聖書箇所、「受胎告知」を示すこの箇所にはたくさんの恵みが隠されています。その一つが「神にできないことは何一つない」という御言葉です。ただ、コロナ感染症に襲われた私たちにとってこの御言葉を聞くことは、時に苦痛を伴うものなのではないでしょうか。
コロナ禍のため職を失ったり収入が激減する。DV(ドメスティックバイオレンス)に関する報道も後を絶ちません。いま第三波に不安を募らせながら生活しています。そうした中、ふと「このコロナ禍において、神はどこにおられるのか」と思います。先月、ゲッセマネの園での祈りを御一緒に学びました。あの時の主イエスは実に無力です。あっという間に逮捕されてしまう。あの時の主イエスにとって、またコロナ禍の中で大変な思いをする一人ひとりにとって「神にできないことは何一つない」という、この天使の言葉をどう聞いたらよいのか、戸惑いさえ感じてしまう。
信仰者は神が全能のお方であることは分かっています。逆に全能でないならば神の名に値しないと考えます。だからこそ戸惑ってしまう。神さまが全能であるならば、何でこんなひどいことがこの世界に起こるのか。とても複雑な思いにさせられるのです。
ところで、この天使の言葉を私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」と訳せるように思います。つまり、この御言葉は元々、「神の語られた言葉は不可能ではない」という意味として理解できるのです。そのようにして今日の箇所をもう一度読み返しますと、天使を通してマリアに語られた言葉は何かと言えば、それはとても具体的な言葉です。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という「神の約束」の言葉です。
創世記18章にアブラハムのことを心にかけていた主の独り言が残っています。「わたしが行おうとしていることを、アブラハムに隠す必要があろうか」とご自身が自らの心に問いかける御姿が出て来ますがその時と同じです。若いマリアに対し神さまはご計画を打ち明け、その計画に参与するようにと招かれ、打ち明けられた方は大変だったと思う。でも彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた。このマリアの姿は、信仰者として実に潔く、そして本当に美しく思いました。今、コロナ禍にあって、信仰を持っているがゆえに、「なぜ」「どうして」と問う私たちです。そうした私たちに、マリアと神から遣わされた天使とのやり取りは、少なくとも二つの大切なメッセージを示しているのではないかと思います。残された時間、そのことを御一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.「お手伝い」へと招く神

一つ目は、マリアは自分のことを「主のはしため」と呼んだ点です。この言葉は、「僕」という言葉の女性形です。今日の箇所から改めて教えられたことは、神さまのご計画、お働きは必ず、私たち主の僕、はしためたちの参加を必要としているということです。「あなたのご計画通り私をお用い下さい、生かしてください。私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神さまのご計画が動きだして行く。誤解を恐れずに言えば、マリアのようなはしためたちや僕たちの「お手伝い」を必要としている。「お手伝い」なしに、神のご計画は実現しないと言えるかもしれません。
先週、祭司ザカリアに起こった出来事を学びました。ザカリアの人生に直接神さまが介入し、ザカリアの老後の生活が大きく変更を迫られたのです。マリアも同様です。彼女の人生に神さまが介入なさった。そしてマリアは「あなたのなさる通りで結構です」と答えた。言葉を添えるならば、「私も自分の人生に自分なりの計画を思い描いて来ました。でも主よ、あなたが私のためにと準備してくださったご計画の方が、私にとって最善のものです。ですから、あなたのなさる通りで結構です。」そう告白し明け渡していったのです。しかしそう祈ったがゆえに、その後のマリアのことは、皆さんもよくご存じだと思います。それが今日の二つ目のポイントです。「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りが、その後の展開を甘んじて受ける覚悟/責任を伴うということです。

Ⅲ.「おめでとう!あなたに喜びがありますように!」

さて、私たちの日常は何かを選ぶことの連続です。人生の節目々々で選択を繰り返し生きています。そして当然、選択にはある種のリスクが付き物です。ところで「危険を冒して何かをすること」を「アドベンチャー/冒険」と呼ぶわけですが、その「アドベンチャー」という言葉はラテン語の「アドベント」から来ています。「飼い葉桶と十字架は初めから一つである」と言われますが、神さまの冒険の結果が飼い葉桶であり十字架でした。とすると、私たちが信じ従うイエス・キリストの神さまはアドベントの神。ですから、そのお方に従う時、私たちも冒険をさせられることもありうるということでしょう。
マリアも、このアドベントの神に従いつつ、信仰の冒険を始めたのです。マリアにとってヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それは想像もつかないような世界に足を踏み入れる「信仰の冒険」でした。まずはヨセフが信じてくれるかどうか。家族に受け入れて貰えるだろうか。ナザレの村の会堂の親しい仲間、そして村人達から何と言われるか分からない。考え始めたら怖くなったに違いありません。でも聖書を読む限り、マリアは実に自由に神さまに心を開き、その御心を選び取っています。そしてよくよく考えてみれば、彼女のこの決断、「お手伝い」があったからこそ、私たち全世界の救いのご計画が大きく動き出して行ったのです。ではなぜ、そうした自由さを持つことが出来たのでしょう。
ここで天使はマリアに向かって、「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけています。この「恵まれた方」とは「既に恵みを受けた方」という意味です。この「呼びかけ」は、既に神さまがマリアをお選びになっていること、マリアの決断に先立って、もうすでに神さまの決断があったことを示す言葉なのだと語っている人がいました。「おめでとう」というこの言葉も、ギリシャ語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味です。「おめでとう!あなたに喜びがありますように。」という意味です。辞書によれば、日本語の、この「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味がある言葉ですが、神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。マリアはこのように神さまが慈しみをもって選び、めでられた女性だったのです。御子を宿すことは、この時のマリアにとっては必ずしも喜びであったとは思えません。さらに、この後ルカ福音書を読み進めていくと、その2章でシメオンという老人が登場し、赤ちゃんイエスさまを連れてお宮参りにやって来たマリアとヨセフを待ち構えるように、マリアにとっては有難くないような預言を伝えます。聞かされたマリアは複雑な気持ちにさせられたことでしょう。ところが、福音書を記したルカは極めて明るいのです。そのことをよく知った上で、マリアが「神さまの愛の中に選ばれている者」であった、だから「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と、天使の「喜びなさい」という、その言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのだと思うのです。神さまの恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず最初にあった。そして、それを受けるように、私たち信仰者が、そうした神さまの恵みに応答して信仰の冒険に足を踏み出していく。

Ⅳ.神の慈しみのなかで

神さまが始め、手を付けられたお働きは、神さまの定めた時に、必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行く。そして救いの完成にまで至る。その最初の一頁、おとめマリアの決断をもって、神さまは救いの実行に移られたのです。神さまがマリアをめでるように、私たちをご覧になり、その私たちに御言葉を用意し、私たちの家庭や学校、職場、そして地域にあって、神さまの救いのご計画の一端に参加するように召してくださるのです。ですから私たちもマリアに倣って、「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と応え、それぞれに与えられている信仰の冒険へと踏み出す選択、決断をしていきたいと願います。お祈りします。

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