優れた方が来られる
松本雅弘牧師
ゼファニア書3章14-20節
ルカによる福音書3章7-18節
2021年12月19日
Ⅰ. ヨハネのメッセージ
主イエスの先駆けとして登場した洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。この時代のユダヤ教では、アブラハムの子孫かどうかが大問題でした。そうした中でヨハネは、「そうではない!血肉のユダヤ人なんか、そこらに転がっている石ころからでも生み出すことができる」と断言したのです。その結果、ヨハネのメッセージに心打たれたれた人々が続々、「私たちはどうすればよいのですか」と、洗礼者ヨハネの許にやって来たのです。
Ⅱ.ヨハネのメッセージと主イエスのメッセージの間の連続と非連続
ヨハネが取り次いだメッセージは、一言で言えば「神の国が来るということは、裁きが来る」というものでしたが、そのヨハネが、「私はあなたがたに水で洗礼を授けているが、私よりも力ある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と、後に来られると証言した主イエスの語ったメッセージには新しさがありました。つまり、ヨハネが「罪人が裁かれる」と言ったのに対して、主イエスは、「その罪人が赦される」という、「罪人にとっての福音のメッセージ」を取り次いだのです。
思い出していただきたいのですが、自分は正しい人間だとうぬぼれ、他人を見下している人々に向かって主イエスは、祈るために神殿に上ったファリサイ派の人と徴税人についての譬えをお語りになりました。自他ともに認める立派な人間をもって任じていたファリサイ派の人が神の前で祈った時に、貪欲、不正、姦淫をせず、逆に断食し祈る人間である自分を感謝したのに対し、もう一人の徴税人はうつむきながら「罪人の私を憐れんでください」と祈ったと語り、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」と譬えを締めくくられたのです。
また、別の機会に主は、民の長老たちに向かって、「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る。」(マタイ21:31)とまで言ったほどでした。
Ⅲ.主イエスキリストの福音の新しさ
ところで、ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したことで投獄されていた洗礼者ヨハネの心の中に、「イエスさまをどう理解したらよいか」についての一種の迷いがあったことを聖書は伝えています。ヨハネは何をしたかと言えば、弟子たちを主イエスの許に派遣し、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」と尋ねさせたのです。つまり、獄中で洗礼者ヨハネの耳に届く、主イエスによるメッセージ、そして、語ったメッセージ通りの生き方をしていた主イエスを受けとめ切れずにいたのではないかと思うのです。
確かにヨハネのメッセージと主イエスのメッセージは連続する部分も多くありました。ただ非連続の部分、主イエスのメッセージには新しさがあったのです。それがヨハネにとっては躓きだったのでしょう。
ともすると私たちは、何か自分の中に基準があって、その基準に値しない者だから、自分はクリスチャンになんかなれない、洗礼なんて考えられない、と思っておられる方もおられるのではないでしょうか。あるいは、神さまの一方的な恵み、無条件の愛を信じ切れずに、クリスチャンになった後も、心のどこかで〈自分は足りない、自分はダメだ〉と感じ、場合によっては洗礼を受けたことを後悔すらしている人もおられるかもしれません。でも、そもそも私たちは、どのようにして救いに与ったのでしょう?何か立派なことをしたからでしょうか?あるいは、立派な人間になることを堅く心に誓ったことを条件に罪を帳消しにしていただいたのでしょうか?
そうではないのです。私たちの救いの根拠は、私の外側にある、クリスマスの出来事から始まる、キリストの生涯、十字架、復活という一連の、主イエスの御業に根拠が置かれているのです。
洗礼者ヨハネは「裁きが来るから悔い改めなさい」と説きました。「罪が処理されていなければ裁かれる」と説いたのです。勿論、それは正しい。何故なら、「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。
でも、主イエスのメッセージは、さらに進み、「罪人が赦される。そのために私は人間となり飼い葉桶に生まれ、あなたの痛みや病いを負い、あなたの罪の支払いを引き受ける」。その、キリストによって実現される救いの御業を担保に、「私たちに罪の赦しを宣言するメッセージ」を語ってくださった。それが福音です。
イエスさまは、「すべて(疲れたままで)、重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と招かれる(マタイ11:28)。その招きに応じてイエスさまの許に救いを求めてやって来る私たちを、そのまま、あるがままの姿で受け入れ、罪を赦し、新しい命を与えてくださる。ただ、そのように私たちが本当に無条件の神の愛を味わう時に、必ず、その恵み、その神さまの愛に応えて生きていきたいと願う私たちに変えられていく。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」ということが、私の生活のなかで実現する。つまり、私がイエスさまのように愛の人へと成長させられていくのではないでしょうか。
Ⅳ.優しい方が来られる
今日お読みした出来事から遡る事、30年前、あのベツレヘムで野宿していた羊飼いたちに、天使が現れ、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」とのメッセージが伝えられました。
ルカ福音書によれば、クリスマスのメッセージを歴史上最初に知った人々、いや、神さまがクリスマスのメッセージを最初に知らせたいとお選びになった人々が、羊飼いであったと伝えています。
イエスさまがお生まれになった時、マリアとヨセフは生まれたばかりのイエスさまを飼い葉桶に寝かせました。「宿屋には彼らの泊まる所がなかったから」(ルカ2:7)。そして当時の羊飼いたちも主イエスと全く同じ扱いを受けていた人たちでした。
この時、人口調査の勅令がローマ皇帝から出されました。マリアも出産が間近に迫る中で大きなお腹を抱えて旅しなければならなりませんでした。一方、羊飼いたちはと言えば、いつもと変わらず、野原で羊の群れの番が出来ていたのです。それはとりもなおさず、彼ら羊飼いたちが人口調査の対象外、初めから数に数えられていない人たちだったからです。
世間からそう扱われ続けていましたから、今で言うところの自尊感情の本当に低い、そうした人々の代表が羊飼いだったと思います。しかし神さまは、イエスさまの誕生の知らせを、彼らを選んで伝えたのです。
赤ん坊の誕生、受験の合格、就職の内定が出たりした時に、最初に誰に伝えるでしょう?本当に大事な人、共に喜んでくれる人に知らせるものです。神さまから見て羊飼いたちはそうした人たちだったのです。それは彼らこそが救い主イエスさまを誰よりも一番必要とする人たちだったから。あのぶどう園の収穫の時に5時に雇われた労働者に最初に賃金を渡して安心させたいと思われる私たちの神さまは、まず羊飼いたちに喜びの知らせを伝えたかったのです。何と優しいお方なのでしょう!
在日朝鮮人作家、高史明(コサミョン)さんが書いた、『生きることの意味について』という自叙伝を読んだことがあります。かつて小学生時代に優しい眼差しを注いでくれた日本人教師を思い出しながら、「優しさ」の中身についてしみじみと語り、「優」の字は、「憂いの傍らに人が立つ」と書く。これこそが、優しさの本当の姿だというのです。
11世紀のカンタベリーのアンセルムスという大神学者が居ましたが、彼は、「クール・デウス・ホモ」、訳すと「何故、神は人となられたのか」という有名な命題によって、罪を贖うために人となられた神というクリスマスの意味を説き明かしました。しかし、これに対し、ハービー・コックスという現代のアメリカの神学者は、私たちはもう一歩踏み込んで、「クワル・デウス・ホモ/神はどういう質の人となられたか」と問うべきなのではないだろうか、と主張したのです。
クリスマスの出来事を思い巡らす時、主イエスはまさに優しい方として来られた。人となられた神は優しいお方である、と私たちは知らされるように思うのです。
飼い葉桶に誕生されたイエスさまの生涯は、「人を迎え入れる」人生でした。羊飼いたちのように、世間の基準からしたら「小さく、取るに足りない者たち」、憂いを持つ人たちをことさら愛し、「あなたは大切な人です」と伝え生きる歩みをなさった。そのようにして私たちも、この神の国の交わりの中に迎え入れられた者同士なのです。
このお方が来られ救いを届けてくださった。そして再び来られ、神の国を完成してくださる。そのことを心に留め、「主よ、御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩む私たちでありますようにと願います。
お祈りします。