十字架の死
ヨハネによる福音書19章16節後半−30節
宮城献副牧師
1. 十字架の彼ら
今日は、キリストが十字架にかけられ、亡くられたことを覚える受難日です。教会にとって、大切な一日です。そして、キリストの死を覚えるために、高座教会でも、歴史の教会に倣って、講壇や聖餐卓の上を、受難日は、黒の布で覆っています。今年は、ともに礼拝堂に集まることが出来ませんが、実際の礼拝堂では、黒の布で覆いました。
確かに、私たちは、今、ともに、私たちのその身をもって、礼拝堂に集まることは出来ません。だから、礼拝堂の様子が変わろうとも、だから、どうしたのだと思うかもしれません。そして、何より、私たちは、今、日常と違った日々を送らなければなりません。ですので、この先行きが見えない中、この後、世界はどうなってしまうのかと不安に思ってしまいます。
でも、そのような中で、今、立ち止まって覚えたいことは、昨年と同じように、今日も、高座教会の礼拝堂を黒の布が覆っています。そして、今、この教会に連なるお一人おひとりが、それぞれの場所で、ともに心を合わせて、キリストの十字架を覚えているのです。私たちは、たとえ、その肉体が離れていようとも、主の十字架を見あげることで、一つになれるのです。そして、それは、高座教会だけのことでもありません。今、この病で、全世界が分断されてしまいました。でも、全世界の教会が、今日、ともに、主の十字架を見あげます。私たちは、十字架にあって一つなのです。この十字架の慰めを覚えながら、今日のみ言葉をともに聞いていきましょう。
19章16節以降では、まず、具体的な人が出てこないことに気づかされます。他の福音書では、イエス様の代わりに十字架を背負ったキレネ人のシモンが登場しますが、ヨハネでは、出てきません。また、16節では、イエス様を十字架に架けるために引き取った「彼ら」、18節でも、イエス様を十字架につけた「彼ら」とあって名前は記されていません。さらに、他の福音書では、イエス様とともに十字架に架かった二人は、強盗と紹介されていますが、ヨハネでは、「他の二人」とだけ記されています。
では、なぜイエス様の十字架に関わった人たちが、このように簡潔に語られているのでしょうか。それは、ヨハネの強調点が、イエス様の十字架は、具体的な誰だれ、ということではなく、全ての人が関わる問題なのだ、ということにあります。イエス様の十字架は、ユダヤ人だけではなく、また、ローマ人だけではなく、祭司だけによるものでもなく、ピラトだけによるものでもなく、全ての人が関わる出来事なのだということです。そして、それは、今、このみ言葉を聞く、私たちにも関わる出来事だ、ということでもあります。
2. 兵士と女性
そして、このヨハネの強調点に立って、今日は、23節以降も捉えていきたいと思います。確かに、23節以降、十字架に関わった人々の具体的な輪郭が示されていきます。ヨハネは、十字架のもとにいる二つのグループを描いているのです。ヨハネは、印象的に、四人の兵士と、四人の女性を記しています。けれど、十字架の前にいる彼らの姿を見ていきますと、彼らを通して、不思議と、私たちも、キリストの十字架の前に立たされていることを覚えるのです。
兵士たちは、イエス様を十字架に架けた後、イエス様の服をむしり取り、それを四等分に分けた、というのです。世界の救い主が、今、十字架で死のうとしている。そんなことは自分に関係ない。衣服を奪い取り、私腹を肥やすことにしか関心が無い。十字架を前にした哀しい人間のあり様です。
でも、彼らだけではないのです。今日は、主の十字架を見あげる受難日です。でも、それにも関わらず、自分のことにしか関心が持てない、自分の生活のことしか考えられない。確かに、今、私たちは不安で押しつぶされてしまいそうです。でも、それでも、彼らの姿を通して、私も今、十字架の主の苦しみから目を離しているのではないかと問われます。
一方、ヨハネは、十字架の前で、十字架を見つめ続けた、四人の女性たちを描いています。もちろん、ここで、イエス様の愛する弟子、このヨハネ福音書を記したヨハネ自身ではないかと言われていますが、一人の男性の弟子も登場します。でも、他の男性の弟子たちは、一人もいません。そして、ここで、四人の兵士と四人の女性が対になっているように、十字架を見あげ続けた「女性」に焦点が向けられています。今この様な中でも、十字架を見上げる続けるご婦人たちの敬虔な姿を、私は思わされます。
また、その中で、イエス様は、母であるマリアに対して、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」(26節)さらに、イエス様は、愛する弟子に向かって、「見なさい。あなたの母です。」(27節b)とおっしゃられました。そして、27節の最後で、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(27節c)とあります。残される年老いた母を思い、信頼に置く弟子に、その母の世話を託した、イエス様の愛が麗しく描かれています。
ただ、今日は、そのようなイエス様の愛の姿に視点を向けるだけではなく、主の十字架を通して、この出来事を覚えたいのです。イエス様と母マリアとのやり取りは、ヨハネの福音書では、まず、カナの婚礼で描かれています。イエス様が、結婚式の中で、水をぶどう酒に変えられた奇跡の場面です。せっかくですので、その一節を開きたいと思います。2章4節です。新約聖書の165頁です。お手元に聖書がある方は、ぜひお開き下さい。ヨハネによる福音書2章4節、新約聖書の165頁です。お手元に無い方は、私が、ゆっくり読みますので、どうぞお聞き下さい。お読みします。
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
ぶどう酒が無くなって困る、母マリアに対して、イエス様は、素気ない態度を取られているなと思わされます。でも、今日の箇所と重ねて読んでいきますと、気づかされることがあります。2章4節では、「わたしの時がまだ来てい」ない、とイエス様は、おっしゃられていますが、その時とは、十字架の時です。そして、その時が来たら、新しいかかわりが生まれる。それは、十字架によって、神の家族が生み出される、ということです。マリアは、十字架の前で、愛する弟子のヨハネと神の家族になったのです。
そして、これは、マリアとヨハネだけのことではありません。十字架の前に集う私たちは、もともとこの世での繋がりはありませんでした。けれど、キリストの十字架の御前で、私たちは、教会という神の家族が与えられたのです。
では、私たちを一つにする十字架とは、どういったことを意味しているのでしょうか。
3. 究極的な愛の実現
30節にありますように、十字架上で、最後、イエス様は「成し遂げられる」と語られています。そして、この「成し遂げられる」という言葉は、「終わり」や「究極」といった意味の「テロス」という言葉がもとになっています。そして、その言葉が、ヨハネの福音書では一回だけ出ています。この祈祷会の初日の箇所、最後の晩餐が描かれた13章1節に、です。この言葉を、新しい聖書(聖書協会共同訳)が、とても良く訳していましたので、そちらをお読みしたいと思います。ゆっくりとお読みしたいと思いますので、注意してお聞き下さったらと思います。
過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。
今、お読みした後半、「最後まで愛し抜かれた」の「最後」に、その「テロス」という言葉が用いられています。そして、この箇所の後、イエス様は、弟子たちの足を洗われ、弟子たちを愛されたのです。でも、その後、ユダの裏切りが語られます。けれど、それでも、互いに愛し合うようにという掟を示されました。そうして、イエス様は、十字架に架かったのです。そうやって、成し遂げられたのです。何をでしょうか。それは、テロスに至る愛、つまり、究極的な愛をです。
では、誰を愛されたというのでしょうか。それは、弟子たちを。私たちを。そして、この世界の全ての人を。そうして、この愛ゆえに、つまり、イエス様が、友を愛するがゆえに、命を捨て、血を流され、私たちの罪が洗い清められたのです。そうやって、私たちを、イエス様は、最後まで愛し抜かれたのです。これが、十字架の意味です。
4. 愛の勝利
また、説教を備えながら、ヨハネの福音書が語る十字架の壮大さに驚きを覚えました。イエス様が、十字架の意味について語る箇所が、12章32節に記されています。新約聖書の193頁になります。どうぞお開き下さい。また、お手元にない方は、ゆっくり私が読みますので、お聞き下さい。新約聖書193頁、ヨハネによる福音書12章32節です。
わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
イエス様は、十字架の御前に、全ての人を招かれているというのです。招かれているのは、弟子たちだけでないというのです。十字架を見あげていた、四人の女性たちだけでもありません。十字架の前で、十字架を見つめなかったローマの兵士も招かれているのです。なぜなら、全ての人の罪を赦すために、イエス様は、十字架に上げられたからです。もちろん、この十字架が自分のためだったと信じるか信じないかは別のことです。けれど、それでも、十字架は、全世界の全ての罪人を招いている。そして、その中に、私たちもいるのです。そうやって、私たちは、十字架の御前に招かれた罪人として、けれども、十字架ゆえに、罪赦された罪人として、私たちは、一つにされたのです。
今、私たちは、礼拝堂に共に集うことが出来ず、神の家族が離ればなれになってしまったと思うかもしれません。また、世界の国境は閉じられ、この世界も分断されてしまった様に思えてしまいます。けれど、そのような中で、今日のひと日、覚えたいことは、イエス様は究極的な愛を「成し遂げられた。」のです。もう既に、十字架によって、私たちは、イエス様のみもとに招かれ、一つにされたのです。この十字架の恵みに、堅く立って、どうぞ、イースター礼拝まで、それぞれが、それぞれの場所で、一つ思いになって、主の十字架を見あげて参りましょう。それでは、お祈り致します。