厳しい現実の中で
松本雅弘牧師
詩編147編1-11節
ルカによる福音書1章39-56節
2020年12月13日
Ⅰ.アドベントの主役としてのマリア
しばらく前の話ですが、幼稚園のクリスマス会を翌日に控えた年長さんが、虹の部屋の前で遊んでいました。通りかかった私に、「明日は、クリスマスなんだ。劇をやるんだ」と話しかけてきました。「誰の役?」と尋ねますと、「マリアさん」とその女の子は答えました。そして、もう1人の女の子に「あなたは?」と訊きますと、その子も「私もマリアさん」と答えました。〈さすが、みどり!〉と心の中で嬉しくなりながら、「マリアさんは何人いるの?」と尋ねますと、「8人かな、でもイエスさまは3個しかないの」と答えが返ってきたのです。お人形のイエスさまが3つしかない、という意味でしょう。改めて私は、降誕劇の主役はマリアさんなんだなぁ、と思ったことでした。
Ⅱ.喜びに溢れるマリア
今日もそのマリアさんが登場します。受胎告知を受けたマリアには婚約者ヨセフがいました。まず彼のところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か、もしくはナザレの会堂長のところに出掛けて行くことも考えられます。ところが、ルカ福音書は、マリアがエリサベトの許に急いだことを伝えています。
何でそんなにも急いで向かう必要があったのでしょうか。例えば、ふと気づくと急ぎ足で歩いている自分を発見するようなことがあります。そのような時、心の中に何か急き立てるような思いがあることに気づきます。不安や焦りであったり、何か落ち着かない気持ちだったり。でも、それとは全く逆のこともあります。向かった先に楽しみが待っているような場合です。「少しでも早く、そこに行ってみたい」という思いから急いでしまう。この時のマリアはそうだったのではないでしょうか。彼女の心の内はどのようなものだったのでしょうか。それを解く鍵が「マリアの賛歌」の歌い出し、「わたしの魂は主をあがめ」にあると思います。この「あがめる」という動詞の形は現在形で書かれていて、ニュアンスを込めて訳すならば、「わたしの魂は主であるあなたを、今もずっとあがめ続けています」という意味です。この時、マリアはすでに喜んでいた。不安だったので確かめようとしてエリサベトの許に急いだのではありません。喜びに急き立てられていたからです。それが、ここでルカが伝えようとしていることなのです。
Ⅲ.マリアのエリサベト訪問
さて喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。エリサベトのところに行って、喜びを感じている者同士、神さまの恵みを数えながら、共に賛美し、祈りをしたいと願ったからです。そして本当に不思議なのですが、エリサベトと会う時点まで、マリアの心の中にあった喜びは歌になってはいません。エリサベトに挨拶され、そして共に抱き合って喜んだ時、その時初めて賛美の歌が生まれたのです。そのようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
ところで学者によれば、マリアは全く白紙の状態から、この賛歌を歌い上げたのではなく、幾つもの聖書の言葉が、この「マリアの賛歌」にはちりばめられていることを指摘しています。そう言えばマリアは祭司アロンの子孫エリサベトの親戚でしたから祭司の家だったかもしれません。幼い頃から詩編を唱え祈る家庭の中で信仰を育まれてきたに違いない。ですからマリアは、自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかった。神の御子イエスを生むという恵みを独り占めしようとは思わなかったのでしょう。むしろ旧約聖書で歌い継がれた神さまの恵みに自らも与っている一人の信仰者としてエリサベトと共に、与えられた恵みを感謝しながら恵みの歌を歌おうとしている。ちょうど、みどり幼稚園に、「マリアさん」がたくさんいたように、「私だけではない、あなたにも、このような神さまの恵みが与えられている」と、その恵みを数えながら、信仰の歌を、それも昔からの歌を、新たな思いを込めて歌ったのが、この「マリアの賛歌」だったのです。このようにして歌われたのが「マリアの賛歌」でした。
Ⅳ.厳しい現実の中で
14世紀のイギリスに「ノリッチのジュリアン」と呼ばれるクリスチャン女性がいました。30歳の時、大病を患い、死線をさまよう中、神さまの特別な取り扱いを経験します。後に、それを「神の愛の16の啓示」という本にまとめました。その中で彼女は、こんなことを語っています。「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んでいきることである。」長年、信仰生活を送る中、私たちが導かれる思い、境地は、まさにジュリアンが語るこの言葉に表されているように思うのです。「神の愛を実感し、神を喜んで生きること」。ですから新共同訳も口語訳も、「喜ぶ」という、この言葉を少し膨らませるようにして、「喜びたたえる」とか「たたえる」と訳しているのだと思うのです。
今年はコロナ禍で礼拝も限定的、未だに動画中心です。この動画をご覧になっている方たちはいつ、またどのように礼拝を捧げておられるだろうかと気になることがあります。ある方が、「いつも動画を観ています。横になりながらでも見れるので便利です」と言われ、その方は笑い話で言われたのでしょうが、私は笑うことが出来ませんでした。むしろ悲しい思いにさせられたことです。今まで、毎週、礼拝に集っておられた方々、あるいは定期的に礼拝に出席された方たちの礼拝生活のリズムは大丈夫だろうか、と心配になることがあります。確かに礼拝動画ですので、私たちの都合に合わせていつでも、どこでも、どのような姿勢でも動画を観ることは可能でしょう。でも、今まで大事にしてきたクリスチャンとしての優先順位がいつの間にか乱れて来ていないでしょうか。実は、コロナ禍にあって、私たちはそうした厳しい現実の中に立たされている。
礼拝は本当に大切であり、クリスチャンとしての生命線です。神さまが、独り子イエスさまを飼い葉桶に誕生させ、イエスさまが十字架にかかって下さったのは、私たちを罪の奴隷状態のような生活から自由にし、その与えられた自由をもって、礼拝の民として生きるためだと、はっきりと教えられています。いや、私は会社員です。主婦や学生ですと言われるかもしれません。確かに、そのような者として一週間、この世へ派遣されます。しかし、聖書によれば、私たちは会社員以前に神の子であり、主婦以前に、神を礼拝する民なのです。学生以前に、神の愛するいとし子なのです。それが最後まで私から取り去ることの出来ない身分なのです。
牧師が皆さん教会員の祈りに支えられながら、「みことばに仕える」という務めを果たすために説教と取り組み、時間や健康の管理をするように、信徒も神を礼拝するために召された者として、日曜日には礼拝に集えるように祈り、健康管理をし、スケジュールを調整する。すると不思議と恵みに満たされ、必ず神を喜ぶ者へと整えられていくはずです。何故なら、礼拝を守ることは、喜びの源泉である、ぶどうの木であるキリストにつながることであり、そのことこそ「恵みの手段」と呼ばれる、神さまが私たちを成長させるために用いられる、祝福の手段だからです。
マリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは、神さまを喜ぶことだ。神さまを礼拝することにより、私たちの心に喜びが満たされるからです。マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで偉大な神さまだから、偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまは、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感したのです。そして、そのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
今日、ここに礼拝に集った私たちも、マリアやエリサベトと一緒に主を賛美し礼拝して、生きることが許されている。教会には、私と共に喜びや悲しみを分かち合える信仰の友エリサベトがいる。この恵みの中、クリスマスに向けて歩む私たちでありたいと願います。
お祈りします。