天の国のことを学ぶ
宮城献副牧師
出エジプト記3章7-12節 マタイによる福音書13章51-52節
2020年8月2日
Ⅰ.はじめに
この度、私が、高座教会での主日のご奉仕が最終日とのことで、説教奉仕のお役を仰せつかりました。皆さまの尊きお祈りとご支援によって支えられてきた者として、御言葉をお分かちする機会を与えられ、感謝しております。また、今日は、洗礼入会式も執り行われます。新しい神の家族が与えられる恵みに預かることも許され、感謝です。ただ、このようなコロナの状況にあって、高座教会の皆さまに、按手を迎えてのお礼を直接お伝えすることが出来なかったこと、また、直接お別れのご挨拶も出来ない方もおられ、心苦しく思っています。
けれど、神学教師に必要な資格取得のために、留学する決断を致しました。私は、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの志が与えられました。そして、その志に応えていきたいと示され、また神様から、様々な助けが与えられ、道が整えられ、9月から学びを始めることへ導かれていきました。
Ⅱ.学者とは:天の国の学者
さて、今日説教をさせて頂くにあたって、マタイの13:51-52の御言葉が与えられました。というのも、神学校時代に、私が、師事した指導教官の研究室の壁に、この御言葉が掛けられていたからです。研究室では、先生に指導を受けながら、歴史の教会を導いてきた、アウグスティヌス、アクィナス、ルター、カルヴァン、バルトといった教会の先人たちが、命を賭けて、語り、記してきた聖書の教えに心を傾けてきました。ただ要領も悪く、呑み込みの悪い私でしたが、先生は忍耐強く、真理を分かち合うために心を砕いてくれました。このような中で、私は、先人たちの言葉に心を傾け、聖書の教えという真理を分かち合う喜びを教えて頂きました。
そして、今日のマタイの御言葉に出会ったのです。51節で、イエス様は、「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」と聞いております。これらのこととは、前のページの13章1節以降の小見出しを見ていくと、様々なたとえが語られていることが分かります。ですので、イエス様が「これらのことがみな分かったか」という「これらのこと」とは、イエス様が語られた、たとえのことです。そして、イエス様は、それらの「たとえ」を通して、「天の国」について、語られています。ですから、イエス様は、これでもか、これでもかと、様々なたとえを通して、天の国について、教えられました。そして、その後「これらのことがみな分かったか」と、優しく、弟子たちに、彼らの理解を確認しています。愛をもって、イエス様は、弟子たちと、真理を分かち合っていたのです。
そして、弟子たちの理解を確認した後、52節の御言葉が続きます。「そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。』」ここで、イエス様が、天の国を学んだ、弟子たちを「学者」と呼んでいることに、驚かされます。「学者」という、もともとの言葉は、他の箇所では、「律法学者」を指す言葉として、用いられています。当時の宗教的なリーダーで権威を持つ「律法学者」に該当する言葉が、当時の社会で蔑まれ、馬鹿にされてきた漁師や徴税人出身の弟子たちに向けて語られています。そうだとしますと、天の国を学んだ人とは、どんな人であっても「学者」なのだと、イエス様は、語っていることが分かります。ちょうど、このマタイの福音書の松本先生の講解説教を通して、私たちは、天の御国について、学んできました。ですので、不思議に思われるかもしれませんが、私たちも、皆、学者です。今日から神の家族の仲間に加わる方々も、受洗勉強会を通して、天の御国について、ともに学んできたのですから、天国学の学者です。そして、私のこれからの学びも、この延長線上にあるものだと受け止めております。
また、イエス様の御言葉を通して、天の国を学んだ学者と、律法学者との違いも分かります。イエス様は、学者とは、自分の倉から、食べ物を惜しみなく家族に与えて、養う一家の主人のようだと言うのです。自分が学び、培った真理を、自分の知的欲求を満たすためのものとして、一人占めしようとはしません。そうではなく、真理を分かち合うのです。一方、律法学者は「知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」(ルカ11:52)と語られています。律法学者は、培った知識を自分のために、利用していたのです。
Ⅲ.分かち合う真理:神の愛の支配
では、分かち合う真理の内容とは、どういったものでしょうか。イエス様は、学者が「新しいものと古いものを取り出す一家の主人のようだ」と語っています。新しいものと古いものとが、分かち合われる内容です。では、古いものと新しいものとは、何でしょうか。古いものとは、律法と預言者といった旧約聖書を通して、示されてきた神様の御心です。そして、新しいものとは、イエス様を通して示された神様の御心です。
ただ、ここで、注意が必要です。古いものと新しいものと聞きますと、その違いが強調されているように思えます。けれど、イエス様は、律法と預言書を完成するために、この世界に来たのだと語っています。つまり、旧約聖書を通して示されていた神様の御心を、イエス様は、完全に示された、ということです。ですので、古いものと新しいものとで示される、神様の御心は同じです。ただ、この神様の御心は、イエス様を通して、この世界に、完全に明らかにされたのです。
では、イエス様を通して示された御心とは、具体的に何か。それが、愛です。神様の愛です。聖書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、」と語っています。また、マタイによる福音書で、天の国とは、神様が支配されている、その領域のことを意味します。そして、イエス様は、宣教の初めに「天の国は近づいた」と宣べ伝えました。天の国が近づいたのですから、天の国の方から、この世界に近づいてきた、つまり、神様が、この世界を治めようとしている、ことをイエス様は語られています。けれど、イエス様は、ただ、言葉を語るだけではありません。神様が、この世界を支配されていることを実際に証されたのです。では、どうやって。それは、イエス様が、病気の人を癒し、貧しい人々にパンを与え、罪びとの友となり、神様の愛で、この世界を満たすことを通してです。ですので、悲しみや憎しみで支配されているように思えてしまう、この世界を、神様は、愛をもって治められることを、イエス様は、示されたのです。そして、この神様の愛のご支配という真理を分かち合う者が、天の国の学者なのです。
神学校の敬愛する先生のもとで、先人たちの言葉に心を傾けていくことで、真理を分かち合う喜びを教えられたとお話しました。そして、私は、この喜びを教えられた者として、神学教師の働きにも仕えていきたいとの志が与えられていったのです。けれど、そういった中で、教会に仕える中で、どのように、この志に応えていけるのかと思い悩む様になりました。そして、ついに、私は、この悩みを解消することが出来なくなっていました。こんな私は、献身者としての道、その全てを捨てるべきだとも思う様になりました。そして、全てのことに手がつかなくなり、生きる気力も失っていきました。
ちょうど、そのような時期、神学校のもう一人の恩師が、執筆中の注解書の資料を集めるために、リサーチアシスタントとしてお手伝いする機会を与えて下さいました。先生は、私が、悩み行き詰まっていることも、ご存知でした。ですが、私が資料を届けに参りますと、その注解書のことや研究なされている御言葉について、生き生きと分かち合って下さいました。今、振り返りますと、そのようなご指導や交わりを通して、私は、心からの慰めが与えられました。先生は、この世の誰とでも、友になられた、キリストの友情論をテーマに、新約聖書を研究されてきました。けれど、先生は、ただ研究するだけではなく、ご自身が学んでこられた神学に生きておられました。そして、行き詰まり、迷い、どうしようもなくなってしまった、この私とも友になって下さったのです。そうやって、イエス様が示された、神様の愛という真理を分かち合って下さったのです。そして、私自身、前を向いていく、一つのきっかけを頂きました。そして、教会に教職者として仕えながらも、神学教育・研究を通しても、教会に仕えていきたいとの思いが固められていきました。
Ⅳ.天の国の学者として
さて、先ほど申しあげましたように、今日は、洗礼・入会式がこの後に執り行われます。誠に感謝なことに、今回もそうですが、何回か、私は、若い学生たちと、洗礼に向かっての勉強会をリードする機会を頂きました。その中で、み言葉の解き明かしをした後に、若い学生たちが、み言葉の真理に出合った、その驚きを分かち合って下さる機会が度々ありました。その度に、私自身も教えられ、多くの励ましを頂いてきました。そして、今日、洗礼に与る方々は、ぜひ、これからも、天の国の真理に出合った喜びを、愛する家族や友に分かち合って頂きたいと思います。なぜなら、皆さまも、天の国の学者だからです。そして、この度、受洗する方々だけではありません。毎週、み言葉に預かり、神様の愛という真理を教えられた私たちも、天の国の学者として、その喜びを共に分かち合っていこうではありませんか。それでは、お祈り致します。