子どもが育つということ―成長させてくださる神
2016年1月10日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ルカによる福音書2章41~52節
Ⅰ.はじめに
今日の聖書の箇所には成人式を翌年に控えたイエスさまが登場します。ユダヤ人の社会では、男子は13歳で、律法を守る成人として迎えられました。今日はここから「子どもが育つ」ということの意味についてご一緒に考えてみたいと思います。
Ⅱ.あらすじ
過越祭が終わり、ヨセフもマリアもナザレへの帰路についていました。ところが1日分の道のりを行ったところで息子がいないことに気付き、慌てて引き返したところ、神殿で教師たちと会話しているイエスを発見したわけです。イエスを見つけたマリアは当然叱ります。普通でしたら、「御免なさい」という場面です。ところが、これに対してイエスさまは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と、よく分からない答えをしたのです。
聖書はイエスさまが12歳になったことを伝えています。両親にしてみれば、ここまで育て上げるのに結構苦労があったと思うのです。
思い返してみると、マリアはイエスを授かったことで、普通では考えられないような経験を数多くしてきました。婚約者から疑われ、ナザレの村人たちや、親戚からも白い目で見られるようなことがありました。さらに、しばらくの間エジプトで難民生活もしました。それもこれもイエスを授かった故でした。
マリアにしてみれば、ここまで育てるのにどれだけ苦労したことでしょう。この年の過越祭に来て「あと1年で、この子は成人する」と考えただけで、何か内側からこみあげるものがあったと思います。そのイエスが迷子になり、しかも親に向かって意味不明のことを語ったのです。
このエピソードを、ルカ福音書は「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という言葉で締めくくっていることに注意したいと思います。つまり、イエスが全人的に成長している姿をあらわすエピソードとしてこの出来事を伝えているということです。
これはとても大事な視点だと思います。その証拠に、同じ出来事に遭遇した両親以外の人々は、「イエスの賢い受け答えに驚いていた」のです。つまり、彼らの目には逞しく成長した姿として映っていたわけなのです。子どもが育つということは、こういうことなのではないでしょうか。私たち親がそれに気づけるかどうか、ということだと思うのです。
Ⅲ.大人になるための課題
―アイデンティティーの確立
心理学者エリクソンは、人間の成長を8つのライフサイクルに分けて説明しています。その中で、大人になるために、「自分が何者なのか」を受けとめることの大切さを説いています。
イエスさまも、青年期に誰もが経験する、「自分が誰か」という問いを抱えながら生きておられたのではないかと思うのです。
この時期になると誰もが経験することですが、子どもの頃には絶対的なモデルであった両親の姿の中に弱さや欠点を見出すようになります。大人であるはずの両親の言動に、「子どもじみたもの」を感じてしまい、失望感を味わう経験をするものです。
また社会との接点も拡がり始め、様々な大人との出会いを経験し、今まで抱いていた「大人」というモデル自体が崩れていく、そうしたプロセスを経て次第に人間として自立していきます。それがユダヤ社会において成人式を控えた人間イエスの心の中にあった葛藤、課題だったのではないかと思います。
このことを踏まえてイエスさまの言葉の背後にある、その思いに注目したいのです。この時イエスさまは、神殿を指して「自分の父の家」と呼んでいます。つまり両親に訴えたいことは、「神殿こそが自分の父の家、自分の父は神であり、自分は父の子なのだ」ということです。
先ほどの青年期に持つ課題という切り口で言い直すならば、イエスさまのこの発言は、自分にとっての本当の父親が神さまであり、その神さまと自分との関係の中で、自分が一体何者なのかを、神殿において改めて確認されたのです。ご自分を受け取り直したのです。
成人式との関連で言えば、この時、まさに1年後に成人式を迎える若者として、イエスさまは、自分はいったい何者なのかという青年期の課題に、1つの大きな解決を見出し、イエスさまが自らのアイデンティティーを確立した時の発言のように聞こえて来るわけなのです。
聖書はイエスさま誕生の経緯を伝えています。ヨセフも最初はマリアの妊娠の事実を受け入れられずに苦しみました。人口調査のための長旅。やっと到着したヨセフの故郷ベツレヘム。ところが親戚も居たはずのベツレヘムの人々の冷たさ。聖書は、それを「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と表現しています。
ベツレヘムの人々の冷たさは、すでにそこにまで届いていたマリアの妊娠をめぐる噂のせいだったかもしれないと、聖書学者は言います。遠く離れたベツレヘムでそうだったとしたら、ナザレの人々はどうだったのでしょうか。彼らがイエスさまの出生の真実を理解していたかどうかは怪しいものでしょう。
聖書学者は、マリアの妊娠はナザレの村においてスキャンダルとして受けとめられたのではないかと考えます。そうした噂の様なものが少年期のイエスさまの耳にも入っていたかもしれません。マリアは実の母親でも、ヨセフはそうではありません。イエスさまはそれをどう知らされ、どう受けとめていったでしょうか。それを知った時、イエスさまはどれほど心に動揺を覚えたことでしょう。
ヨセフが実の父親ではないと知った後、仕事に精を出すヨセフを見、ふと「僕の本当のお父さんではない」と感じたなら、次の問いは、「じゃあ一体、誰が本当のお父さん」というものでしょう。この問いこそ、成人式を1年後に控えたイエスさまにとって切実な問いだったのではないかと思うのです。
こうした背景の中で、イエスさまが、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言われたのです。マリアもヨセフもこの言葉の意味が全く分かりませんでした。親から見て、子どもが育つ、成長するとは、こうしたことなのではないかと思うのです。
Ⅳ.子どもの自立を助けるために
親が出来ること
最後に、この箇所から2つのことをお話します。1つはこの出来事に遭遇した親としてのマリアの姿勢に子育ての知恵を学びます。聖書はマリアが、「これらのことをすべて心に納めていた」と伝えます。彼女は分からないことがあると、それを反芻するように、時間をかけて受けとめていきます。そのプロセスの中で何が起こるかというと、親である自分の側に変化が起こって来る、親という器として成長させられていくのです。
真珠貝は自分の体の中に異物が入ってきたことにより、それを受け止めようと、少しずつ少しずつ体全体で触れていく。その結果、その異物が美しい真珠となっていきます。同様に、子どもとの関係の中で、今まで思っても見なかった出来事と遭遇し、戸惑ったり、悩んだりすることがあるのではないでしょうか。そうした出来事の中で、時間をかけて受けとめていくプロセスを通して、実は、親である私自身の人格の中に、何か美しい物が作られていく。そうして、次第に親の器へと変えられていくのです。
もう1つのこと、それは親自身が子離れしていくことです。結婚カウンセラーで津田塾大学講師の村瀬幸治さんは、最近の親の子どもに対する過干渉に触れ、次のように記します。「ではなぜ親はそんなに子どもに執着するのか。それは親が1人の大人として、安心して生きていないからではないか。子どもとのかかわりのなかでしか、自分の存在感を感じることができないとか、親自身が自己肯定的な展望を持っていない、そんなふうに思えるのです。夫婦の間で、楽しい将来が待っているというふうになかなか感じられないから、子どもが離れていくことに耐えられないのでしょう。下宿している大学生の娘に、親が毎晩10時に電話をかけてくるといったようなことが実際にあって、親は親で楽しく生きていてくれないと、子どもは大変迷惑します。」
つまり、親自身が自分自身のあり方に満たされない思いがある時に、子どもを通してその満たされないものを満たそうとすることがあるというのです。本来、夫婦間で満たすべきニーズを、子どもとの関係の中で満たす夫婦もあります。そのことによって子どもの心は不安になり、安心して自分のことに向かうことが出来ないということが起こるのです。
今日は子どもが育つということについて聖書から考えて来ました。
今年、子どもにとっても、また、親の器となるためにも、人生の旅路を生きていく上での最高のガイドブックである聖書から知恵をいただきながら、まずは、自分自身の課題と取り組み、歩みを進めていきたいと思います。お祈りいたします。