子どもの成長のためにできること―待つこと

松本雅弘牧師
ルカによる福音書13章6節―9節
2019年11月10日

Ⅰ.ぶどう畑の中のいちじくの木

今日は、成長感謝礼拝です。先ほどお読みしました聖書個所から、御言葉に耳を傾けていきたいと思います。これは主イエスがお語りくださったたとえ話です。
神さまは私たちを、また子どもたちをどのように見ておられるのか、という大切な視点を教えられます。ここに「ある人」が登場します。ぶどう園の主人でしょう。彼は、ぶどう園の中に1本のいちじくの木を植え、実を探しに来ました。それがこのたとえ話の始まりです。
ここで主イエスは「いちじく」を「人」にたとえています。ぶどう畑の中に自分だけがいちじくの木なのです。どちらを向いても自分と同じものは誰1人いない。いちじくですから、当然ぶどうを実らせることは出来ません。
教育ということを考える時、ある時は、「人と同じにする」ことが求められ、また一方では、「人よりも出来る」ことが重視される場合があります。
しばしば、「人と同じでいること」と、「人よりも出来ること」は、相矛盾するのですが、この2つが、教育現場で同時に求められるでしょう。その結果、ここで、いちじくへの風当たりは強くなるのです。

Ⅱ.切り倒される可能性のあったいちじく

この時、いちじくの木は切り倒されそうになっていました。みんなと同じでないからです。いちじくも毎日、居心地が悪かったかもしれません。居心地が悪いだけではなく、実際に「切り倒せ」とか「場所ふさぎ!」なんて言われるわけですから、自分の存在自体がいつも否定されるような経験をしていました。
実は、こうしたことは私たちが日ごろ、子どもたちに対し、また周囲の人に対してしていることかもしれないと思うのです。
私たちは、みんなと一緒に生活する中で、「みんなの中のひとり」である自分に気づきます。そして、「自分と違うみんな」に出会い、「みんなと違う自分」に気づく経験をするでしょう。
ちょうどぶどう畑の中のたった1本のいちじくの木のようである自分に気づく。そして、不安になることもあります。
聖書は、人間のことを「アンセロポス」というギリシャ語で言い表していますが、この「人間」と訳される「アンセロポス」という言葉の意味は、「上を向く者」、「天を仰ぐ者」、もっと言えば、「神に祈り、神を礼拝する者」という意味がある言葉なのです。
ところが「上を向く者」であることを忘れる時に、必ず「下を向いて」しまう。そして下を向いて何をするか、と言えば、横との比べ合いをするのです。そして、必ず、不安になります。自分がぶどうではなく、いちじくであることに不満になるのです。自分をそのままで受けとめてくれる拠り所が欲しい。「お前はお前でいい!」と言って欲しい。
それを言ってあげられる人は、その子の近くにいる私たち大人でしょう。でも実際は逆を言ってしまうことが多いのではないでしょうか。
「あんたのそこが駄目」とか、「どうして誰々ちゃんのようにできないの!」とか。このたとえばなしの言葉を使うならば、いちじくの木を切り倒したくなる思いに駆られるのです。
何故か、「上を向く者」であることを忘れてしまっているから、というのが聖書の答えです。

Ⅲ.園丁はいちじくの実りを期待していた

ここで「園丁」というのは、畑のお世話をする農夫のことですが、この園丁に例えられているイエスさまご自身は、私たちをどのように見ていてくださるのか。実は、それが今日のポイント、大切なことです。
「上を向く者」として生きる、ということは、イエスさまがどのように見ていてくださるか、思っていてくださるか、を求めて生きるということです。
8節をご覧ください。ここでぶどう園の世話をしていた園丁は、突然やって来たぶどう園の主人の「切り倒せ」という意見に反対しました。そして、「もう一年待ちましょう」と言ったのです。「待ってやってください」と頼んだのです。「待つ」、言い換えれば、「時間をかける」ということでしょう。
ある人が、「LOVE(愛)の綴りを知っていますか?」と問われたそうです。質問の意味が分からなかったので、変な顔をして答えずにいるとその人は、「LOVE(愛)とはT-I-M-Eと書くんですよ」と話されたそうです。
つまり本当に大切なものは時間がかかる。決して急いで出来るものではないということでしょう。確かに急ぎながら愛することはできません。考えたり、食べたり、笑ったり、こうして礼拝を捧げることも急いですることなどできない。子育てもそうです。夫婦や親子の関係、人間関係、神さまとの関係も手間暇かかるわけです。
たとえ話に戻りますが、ここで園丁は、あくまでも、いちじくが実をつけることを期待していたのです。いや、期待していたというより、実をつけることを確信していたのです。
だから「待ちましょう。時間を掛けましょう」と言ったのだと思います。大人たちが子どもたちの成長を願うということは、まだ起こっていない出来事を信じること、見えていない出来事を期待して待つことです。もう1つ、とても大切なことを教えられます。それは、この場面で園丁が期待していたのは切り倒されそうになっていたいちじくの木が、他の木と同じような実を結ぶことではありませんでした。
この木は、ぶどうの木ではないのですから。そうではなくて、あくまでもいちじくの木ですからいちじくの実を期待して待っていたのです。
「いちじくとぶどうを比べて、どっちが凄い?」と質問されたら、皆さんは、どうお答えになるでしょう? 答えに困ってしまいます。「いちじくの実とぶどうの実、どちらが好き?」と聞かれれば答えられます。
神さまは、いちじくがぶどうの実を実らせることを期待してはおられません。でも意外に、いちじく、が周りの木と同じように、ぶどうの実を結ぶことを一生懸命期待し、不安になり、イライラする、などということもあるのではないでしょうか?!
いちじくはいちじくの実を豊かに結ぶことが神さまの願いです。ぶどうはぶどうの実を実らせることが神さまの意図されたことです。
ですから、この子には、この子としての良さがある。だから「誰々ちゃんのように」ではなく、「この子そのもの」であればよい。
園丁は、「神さまの御心がなるのを待ちましょう」と言ったのです。これがイエスさまの御心、イエスさまが私たちをご覧になる眼差しなのです。
では待つだけで、何もしなかったのでしょうか? 決してそうではありません。一年間手入れをしました。信じて待つことは、何もしないことではありません。
木の周りを掘って、そして肥料を撒きます。さらに根っこの周りを掘り、必要な栄養が必要なところに行き届くようにと努めているのです。色々と工夫をしています。
先日の幼稚園の親子礼拝で、妻が「ハグハグすることの大切さ」を証ししました。子どもたちはしっかりと抱かれることによって、愛情を確認します。自分は自分で良い、と自己肯定感を持ちます。以前、タウン誌のタウンニュースを見ましたら、大和に「ハグ・リーダー」という資格を認定するNPOの働きが始まったとありました。とても大切なことですね。こうしたことも、木の周りを掘ったり、肥料をやったりする、大切な務めであり、工夫だと思います。

Ⅵ.私たちもいちじくの木

よくよく考えて見ますと、子どもも大人も、私たち誰もが、ある意味でいちじくの木のようではないでしょうか。
身の置き所のないような自分を抱えて苦闘することがあるでしょう。個性といえばかっこいいですが、でも、本当はやっかいな自分を抱えている、ということもあるのではないでしょうか。
実は、私たち一人ひとりが、イエスさまと言う園丁に待ってもらい、世話してもらっている、いちじくの木であることを受け止めることを、イエスさまはまず求めておられるのです。
このたとえ話は、そのことを私たちに伝えているように思います。ぶどうの木と比較して、落ち込む必要はない。ぶどうの木になれない自分であってよいわけです。いちじくの木なのですから。
そのことをしっかりと受け止めさせてくださるお方こそ、私をいちじくとしてお造り下さった神さまであることを覚えたいと思います。
私たちをぶどうではなく、いちじくの木としてお育てくださるお方は神さまですから、まず「上を向く者」として、私たちが問題にぶつかり、分からなくなる時に、私を私として生かし、その子をその子として生かしておられる、神さまに、その御心を求めるために、常に上を向き、祈り、求める者として歩みたいと願います。お祈りします

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