復活の祝福―エマオのキリスト

 

松本雅弘牧師
2019年4月21日
イースター礼拝
列王記上19章1~13節 ルカによる福音書24章13~32節

Ⅰ.「エマオへの道」

“エマオに向かう/足の重い二人の弟子に/復活のイエスは加わった/それとは知れず/互いに/話はアネモネの花のように心にはずみ/虫ばまれた丸木橋の上では/イエスが一番先に渡り/また三人で並んで旅をいった”
(島崎光正作 「エマオ途上」)
高座教会にも来られたことのあるクリスチャン詩人、島崎光正の「エマオ途上」と題する詩です。アネモネは復活の命の象徴であると言われています。そのアネモネと対照的に「虫ばまれた丸木橋」が「死の象徴」として出て来ます。その橋を主イエスが先頭に行かれる。だから続く者たちは丸木橋から落ちることはありません。
島崎はイエスに続く者たちを、冒頭で「足の重い二人の弟子」と表現しています。そう言えば教会に来られた島崎先生は、足に障がいを抱えていて、講壇にのぼる時、重そうに足を引きずっておられたことを思い出します。島崎光正は死を超えるいのちの旅を、なお主と共に歩む復活の信仰の喜びとうたいました。詩ばかりではありません。多くの画家がこの場面を描いています。

Ⅱ.暗い顔をした2人の弟子たち

さて物語の語り出しに注目しましょう。「ふたりの弟子」が登場します。「弟子」と聞けばペトロ、ヨハネ、ヤコブといった12弟子を思い浮かべます。でも福音書記者のルカは、ちがった見方をしているようです。続編の使徒言行録で、ルカは弟子たちを一般的なクリスチャンを指す言葉として使っているからです。
弟子とは受洗し教会員となった者。特別な人たちではなく私たちのことです。そう考えるとこの「ふたり」も私たちと同じ普通のクリスチャンでしょう。そのうちの1人がクレオパという名の弟子でした。クレオパの名が出て来るのは聖書でここだけです。どんな人だったのか、昔から様々に想像されてきました。その1つに、クレオパともう1人の弟子は夫婦だったのではないか、との解釈があります。
ヨハネ福音書に、十字架の傍にいた人々の名前が出て来ますが、そこに「クロパの妻マリア」とあります。この「クロパ」と「クレオパ」が同一人物だったのではないかと昔から言われてきました。
エルサレムからエマオに向けて歩いている。エマオの村に着くとこの2人は同じ家に入り、主イエスに、お泊りになるようにと願っています。同じ家に住んでいる男女と言えば夫婦である可能性は高いのです。ただ、2人の弟子を男女として描いた絵など見たことはありません。
以前、ある長老が、「自分たち夫婦は、よく夫婦喧嘩をする。口論をする。それは決まって教会のこと。どちらか一方がクリスチャンでも教会員でもなければ、こんなに喧嘩することはなかったと思うことがよくあるんです」と嬉しそうに話してくださったことを思い出します。
教会のことを真剣に考えると、やはり熱くなります。イエスさまのことを熱心に思うあまり議論にもなる。そばにいる者からしたら夫婦喧嘩のように見えるかもしれない。でもご安心ください。そうではないのです。
2人の弟子たちもそうでした。エマオに住んでいた彼らは、不思議な導きで主イエスを知った。主イエスの言葉に心惹かれるようになった。そして今年の過越祭、主イエスにお目にかかるために都に行ったのです。
ところが思いがけない出来事に遭遇します。十字架です。ただそれで終わりません。3日後の早朝、仲間の婦人から「主は生きておられる」という知らせを聞かされた。何が何だか訳が分からない。そうした混乱の中、エマオに戻る途中だったのです。「二人は暗い顔」(17節)をしています。顔の表情は心のバロメーターです。
4月になって始めた新生活も、3週間が経過した今、〈こんなはずでは…〉と立ち尽くす時があるかもしれません。顔は暗くなります。
先週の月曜日、ノートルダム大聖堂が火事になり、何度も流されたニュースの映像を見ながら不思議な失望感を味わい暗い心で過ごしました。また、親しいはずの友からがっかりするような言葉を聞かされたりすれば、私たちの顔は暗くなるのです。
この時の2人もそうでした。主イエスが十字架で殺されたからでしょうか。いや理由はもっと複雑です。彼らの顔を暗くさせる直接の理由はもっと別のところにありました。仲間の婦人たちが持ち帰って語った言葉、「イエスは生きておられる」(23節)という言葉を聞いたからなのです。
不思議です。そして何と皮肉なことでしょう。彼らは主の弟子です。その彼らが主イエスの甦りの知らせ、「イエスは生きておられる」と聞いて喜び溢れたのではなく、逆に暗い顔になったのです。こんなことって、あるのでしょうか。でも私は思いました。これが現実なのではないだろうかと。私たちも主イエスの復活を聞いています。そう信じているはず、いや信じています。しかしそれが喜びに繋がっていない現実がある。知っていても表情は暗い。
さらに滑稽なことが起こります。暗い顔をして立ち止まったクレオパが、「あなただけは、ご存知なかったのですか」と、なかば呆れ顔になり、主に向かって尋ねるのです。
確かに誰もが知っていたことです。過越祭には数えきれない人々がエルサレムに来ていました。今の時代とは違いますから、巡礼者が出来事の一部始終把握するのは不可能です。
そうだとしても、この時だけは違うのです。それは祭の最中、それも都のど真ん中で起こった出来事なのですから。イエスの死、その3日後、墓が空っぽになったという事件。そこに居た誰もが聞かされたことです。目撃者もいました。そうしたことを何も知らない、この人は!
ですから呆れて、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」(17節)と、言ったのです。
でも、どうでしょう。このやり取りの中で気づかされることがあるのです。それは、私が知っていることを主イエスが知らない訳がないということ。本当の意味で知っているのは私の方ではなく、主なのです。

Ⅲ.真実をご存じの主イエス・キリスト

いよいよここから幸いな時間がやって来ます。「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)のです。2人の弟子、あるいは夫婦だったかもしれない。都からエマオに行く途中話し続け、夫婦で議論していました。2人の心は、主イエスの死、主イエスの甦りの話題で占領されてはいたのでしょうが、皮肉なことに彼らの心には、生ける主ご自身、その復活の命はなかったのです。
私たちも知恵に基づいて聖書を論じることがあります。しかし、それがどんなに熱心で興味深い話であっても喜びが起こらないことがあるのです。それは、その議論の中に主イエスがおられないからです。
私たちは知らされます。ルカが伝えようとした復活とは、主が現れてくださるということ。主が生きて、今も私たちを訪れ続けてくださることです。時には叱り、御言葉を悟らせてくださる主イエスさまです。

Ⅳ.復活の祝福

こうしてエマオにやって来ました。そこで2人は主イエスを引き止め、一緒に食事をすることを願いました。それに応えてくださり、主イエスはパンを取り賛美の祈りを唱え、それを分け始めます。食卓での一連のこの行為は当時、その家の主人、本来クレオパがすべきことでした。でも、どういうわけか主がすべてしてしまわれたのです。
もう1人の弟子がクレオパの妻であったなら、彼女が大急ぎで用意した食卓でしたが、主は彼女に対しても、「ここに座りなさい。この食卓は私があなたがたをもてなすのだから」とおっしゃるのです。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)のです。そうです。主イエスの姿が見えなくなった。でもそれだけです。主イエスは彼らと共におられたのです。
主イエスが彼らに現われてくださった、その証拠に2人の弟子、この夫婦はすぐに立ちあがり、12キロの道のりを引き返しています。すでに夜なのに、疲れていたのに。休むこともせずエルサレムに戻って行きます。光の中を、暗い顔をして帰って来た彼らが、今度は真っ暗な夜道を喜びに溢れ、光り輝く顔をしながら急いでいるのです。
2014年に礼拝堂をリニューアルした時、「エマオへの道」という名の廊下を作りました。この日、弟子たちは「エマオの道」を歩き、食卓でパンが裂かれた時に主イエスだと分かった。ですから私たちも毎週、「エマオへの道」を通り、復活の主にお会いする思いで礼拝堂に入り、主が備えてくださる食卓を囲む交わりに導かれていくのです。
歴史の教会は聖餐を祝うごとに、この時の出来事を思い起こしてきました。目で見ることは出来ません。でも「イエスは生きておられる」のです! だからこそ彼らは明るく輝く顔で暗い夜道を引き返せたのです。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽せないすばらしい喜びに満ちあふれています。」 (Ⅰペトロ1:8)
お祈りします。

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