復活を信じます - 使徒信条⑧

松本 雅弘 牧師
マタイによる福音書28章1~20節
2021年4月4日

Ⅰ.死の事実

先週は受難週祈祷会で主イエスの十字架への道程をたどってまいりました。しかし昨年来、コロナの関係でどこか静かなイースターの朝です。例年ですと、金曜日の受難週祈祷会の終了を合図に、翌日土曜日は、朝から数百個もの玉子茹でが始まり、教会はイースター一色、その準備で活気づきます。受難節の期間中、講壇の布は紫、そして木曜日の晩から講壇には真っ黒な布が掛けられる。ですから土曜日は真っ黒なのです。あの二千年前のイースターの朝、前々日に起こった十字架の出来事を経験した弟子たちの心は「黒い布」が示すように真っ暗だった。恐怖と興奮でここ二日ばかり一睡もできず、あまりにも目まぐるしく移り変わる出来事、しかも衝撃的な出来事を経験し、振り返る余裕もなく、何を感じ、何を考え、何をしたかについて、まったく記憶が飛んでしまう二日間を過ごしていたように思います。その証拠に、福音書を読んでも十字架の後の弟子たちの動向については、はっきりとは伝えられていません。そうした中、唯一と言ってもよいかもしれません。弟子たちの様子を知る手がかりが「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と語る天使の言葉に隠されているように思いました。この時の弟子たちの心にあったのは、少しでも早くガリラヤに帰ることでしょう。そうした彼らの思いを受けとめるように「あなたがたより先に」と天使が語ったと理解できます。普通の神経の持ち主でしたら十字架の直後は何も考えられなかったでしょう。エルサレムは過ぎ越しの巡礼で訪れた場所で滞在地に過ぎません。〈すぐにも逃げ出したい。戻るとすれば、どこ?〉。咄嗟に浮かんだ風景は故郷ガリラヤでした。〈ガリラヤに戻ろう、そこで一からやり直したい〉と思ったのではないでしょうか。ある説教者が語っていました。「ここにははっきりと、一つの死の事実がある」と。そうです。彼らにとって主イエスはすでに死んでしまった人。それが弟子たちを包み込む決定的な状況だったように思うのです。

Ⅱ.「死んだらお終い」という物語

今年になって、多くの方たちが天に引っ越しをされました。牧師になって何年も経ちますが、このような年は初めてです。死の現実を繰り返し見せつけられています。この時の弟子たち、そして二人のマリアも同様でした。特にマグダラのマリアは、主イエスによって七つの霊を追い出してもらった女性でした。その彼女を苦しみから解き放たれたのが、他でもないイエスさまです。主イエスは命の恩人、そのお方のお蔭で「人生のやり直し」を経験できた。その主イエスが死んでしまったのです。この時、彼女は墓を訪ねています。復活を確認するためではなく遺体の前で泣きたいだけ泣くためにやってきたのです。二人のマリアも弟子たちも、みんな、「死んだらお終い」という「死の物語」に捕らわれていた。この物語に心が支配されている時、私たちは不安を抱きます。いつ死がやってくるのか分かりませんから。
でもどうでしょう。そうした私たちに、ここで聖書が宣言するのです!「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」マタイによれば不意打ちをくらわすのは死ではありません。主イエスの復活の方なのです。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』これこそ聖書が、歴史の教会で「使徒信条」にまとめ上げ、告白し続けてきた、キリストの復活です。信者、未信者問わず、誰の心の奥深くにインストールされている、「死の恐怖」「死の絶対」「お墓が終着駅」という物語に対する挑戦であり、そして取って変わるべき、新しい喜びの物語なのです。

Ⅲ.死の物語を書き換える復活の物語

ここで改めて気づかされたことがありました。ガリラヤに行く以前にすでに復活の主が二人のマリアに出会ってくださっていることです。それも墓場を出たばかりの、ある人の表現を使うならば、「正に死に取り囲まれている所から飛び出して来たばかりのところ」で、です。9節でマタイは「すると、イエスが行く手に立っていて」と記していますが、原文では「すると」と訳されている言葉は「見よ」と訳せる言葉、「見よ、イエスが行く手に立っていた」ということでしょう。さらに彼女たちに「おはよう」と声をかけます。これはギリシャ語の命令形、「喜べ」と訳せる言葉です。主イエスは彼女たちを出迎え、「喜びなさい」と言ってくださったのです!そして、「恐れることはない。行って、きょうだいたちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会えるだろう」とお語りになったのです。
〈本当にありがたい〉と思いました。「きょうだいたち」という言葉は、ギリシャ語の原文には、「私の」というギリシャ語が添えられています。これまでは、「弟子たち」と呼ばれていた彼らです。でもここで主は「私のきょうだいたち」と呼んでおられます。
それだけではありません。この事実はさらに深い恵みを私たちに伝えています。調べてみますと、歴史の教会は、詩編22編との関連で、この呼び換えの意味を理解していることが分かりました。十字架上で主イエスは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ/わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この叫びは詩篇22編冒頭の御言葉を苦しみの中で主イエスは唱えようとされたと言われます。その詩篇を読み進めていき23節に来ますと、「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え/集会の中であなたを賛美しょう」とあるのです。十字架の上でたったお独り、深い絶望の中で歌い始められた詩篇の歌を、復活の後、今この時、彼女たちに語りかけながら、「きょうだいたち」の歌としてくださったのです。「お前たちは、私の苦しみを全く理解してくれなかった。私の復活も信じなかった。だから、この詩篇を歌う権利はない。これは私一人の歌だ」と主は決しておっしゃらなかったのだ、とある牧師はそう語っていました。二人のマリアは、主から預かったこの言葉をペトロやヤコブやヨハネ、トマスらの前に立ちながら、「主イエスが先だって待っていてくださるのだから、さあ、ガリラヤに行きましょう。先生はあなたがたのこと、私たちのことを、もはや『弟子』とだけお呼びにならず、『きょうだい』、それも『私の兄弟』とも呼んでいてくださっています。そして私たちを迎えるためにガリラヤへ先回りするとおっしゃいました。ですから、さあ、立って行きましょう」と言ったに違いない、とそうコメントするのです。

Ⅳ.「復活の主を信じます」

このようにしてガリラヤで弟子たち、いや兄弟姉妹と会ってくださった復活の主イエス・キリストが、彼らにお与えになった約束が福音書の最後に出て来る、18節以下の御言葉です。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主イエスは一方的に命令だけをなさるのではないのです。御言葉に生きる力をも与えて下さる。何故なら主イエスこそ「天地の一切の権能を授かっているお方」であり、世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださるからです。そう言えば、マタイは天使がヨセフにイエスの誕生を告げた時、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と語り、この名は「神は私たちと共におられる」という意味である、その言葉でもって福音書を書き始めています。そして福音書の締めくくり、最後のところで、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。「マタイ福音書は『神が共におられる』『キリストが共におられる』という二つの約束にサンドイッチされた福音書なのだ」と言われる通りです。この約束は信仰を持たない人にとっては愚かな言葉でしょう。復活を疑う人は常にいます。拒否する人もいます。でも愚かに思える、その言葉を疑いつつも信じ、主イエスの弟子になる決心をして歩み始める時、私たちの人生の中で何かが、私たちの世界で何かが変わり始める。「死んだらお終い」の物語が復活という希望の物語に書き換えられ、死は新しい命への旅立ち、それ故、天での再会の望みへと私たちを導くからです。マタイは「イエスの復活が作り話だった」という話が有名で、「今日に至るまで広まっている」と正直に記しています。今日でも大勢の人々が復活を作り話だと疑う人もいる。でも私は、この二つの話のうちどちらを受け入れるか、です。私たちは復活を信じ、イエス・キリストの弟子となり、洗礼を受け、主の教えを守り、「キリストは私たちと共におられる」という約束と共に、歩んで行きたいものです。お祈りします。

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