心を騒がせるな

2020年4月7日
ヨハネによる福音書14:1−21
宮城献副牧師

1.心騒ぐ中で

 

「心を騒がらせるな。」というみ言葉が、受難週祈祷会の二日目、私たちに、与えられました。日々、新型コロナウィルスの報道を聞き、心を騒ぐ、この時に、この御言葉か、と、説教の備えをしながら思わされました。けれど、この御言葉を聞いた時の弟子たちも、同じような心持ちだったのではないでしょうか。ヨハネによる福音書の14章の舞台は、13章から続く、最後の晩餐の席上になります。そして、昨日、和田先生の説教でともに見て来ましたように、13章では、イエス様が、弟子たちの足を洗われました。続いて、イスカリオテのユダの裏切りを予告し、そして、互いに愛し合うようにと、新しい掟を、弟子たちに語られました。それとともに、イエス様は、「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(13:33)と、十字架による弟子たちとの別れを語っています。もちろんこの時、弟子たちは、十字架の意味やイエス様が十字架で死んでしまうことは分かっていません。でも、イエス様が、自分たちに別れを宣言されている。弟子たちは、動揺し、心が騒ぎ立ちます。その中で、一番弟子のペトロは、命を捨てでも、あなたについていくと、断言するのです。すると、イエス様は、こう語られました。今日の箇所の直前の13章の38節です。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」これを聞いた、ペトロは、衝撃を受けたと思います。まさか、と。そして、ペトロだけではありません。弟子たち、みんな動揺しました。愛するイエス様と離ればなれになってしまう。さらには、一番弟子であるはずの、ペトロが、イエス様を、裏切ってしまう。

けれど、そんな心かき乱された、そのただ中で、イエス様は、こう語るのです。「心を騒がせるな。」ただ、ここで、イエス様は、何も、不動の心を持つのだ、と語っているわけでもありません。私たちの心は、誰であっても、かき乱され、騒ぎ立ってしまいます。また、説教の準備をしながら、教えられたのですが、ヨハネの福音書で「心を騒がせる」といった言葉は、他の箇所では、イエス様自身の心をあり様を語る際に用いられていました。イエス様は、十字架に架けられることを前もって語られた12章27節で、「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃっています。ですので、イエス様は、弟子たちが、心を騒ぐということも知っていたのです。でも、そのことを受け止めて、弟子たちに、それでも「心を騒がせるな」と語られていたのです。そして、同じように、今、心が騒ぎ立つ私たちのことも、イエス様は、その一切を受け止めて下さった上で、「心を騒がせるな」と語られているのです。

では、なぜ、イエス様、このように語られたのでしょうか。続く、御言葉を見ていきましょう。

2.父と子の一体

 

1節の後半です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」神様とイエス様を信じるように、とおっしゃられるのですから、何か、二つのものを信じることのように思えます。けれど、ここで、イエス様は、神様を信じることとは、イエス様を信じること抜きには考えられないのだと教えて下さっているのです。父なる神様と子なるイエス様は、一体である。だから、神様とイエス様を信じることは、同じだというのです。そして、父なる神様と子なるイエス様を同じように信じるように、というのです。

先ほどお読みしました9節でも、イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と、イエス様を見ることと、神様を見ることは、同じだと語られていました。また、11節でも、イエス様は、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と、父なる神様とイエス様が、愛において一つの交わりにあり、一体である、と語られていたのです。

3.父の家には住む所がたくさんある

 

そして、イエス様は、2-3で次の様に語られます。

わたしの父の家には住む所がたくさるある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

このみ言葉は、葬礼拝でよく耳にします。その中で、語られた時、本当に慰めを覚えます。主のもとに召され、この地上での生活を終えた先人たち、そして、将来の私たちにも、天に住む場所があるのだ、と確信が与えられます。かの日の希望を頂き、心に平安が与えられます。

ただ、今日は、わたしたちの用意される、この天の住処について、葬礼拝などで語られる意味とは違った意味について、思い巡らしてみたいと思います。それは、ここで、イエス様が、将来、私たちに備えられている天の住処について、語られていることの意味を否定するのではありません。このことは、イエス様が語って下さった真理であり、本当の慰めです。ですが、それとともに、今日、覚えたいことは、この天の住処が、今のわたしたちにも与えられるものだ、とも語られていたことを受け取っていきたいのです。

ここで、弟子たちに語られていた文脈をもう一度考えてみましょう。イエス様は、一人十字架の道を歩まれると、弟子たちに語られていました。ですので、2-3節で、「あなたがたとは」、まず弟子に向けて語られた言葉です。そして、イエス様は、あなたがた弟子たちのための場所を用意するために「行く」とおっしゃられています。ですので、ここで、イエス様は、十字架の道を通って、天に「行く」と語られているのです。そして、戻って来て、あなたたちを私のもとへ迎える。だから、心を騒がせるな、と語られていました。

弟子たちは、愛するイエス様が、いなくなってしまう、不安で心配だ。でも、戻ってくる。だから、イエス様は、18節でも、「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に帰ってくる」とおっしゃられているのです。でも、そうは言っても、待っている方は、心配ですね。いつ、どうやって、イエス様は、戻ってくるのか、と思ってしまいます。だから、イエス様は、18節の前の16- 17節でこう語っておられたのです。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

イエス様は、「弁護者」「真理の霊」、つまり、聖霊を通して、弟子たちのもとに戻ってこられるというのです。そして、その聖霊を通して、イエス様は、弟子たちと、ともにおられる、と語られていたのです。

では、そのようにイエス様に迎えられた、弟子たちは、どういったところに住む、というのでしょうか。2節で「住む所がたくさるある」の「住む所」という言葉は、今日の箇所の少し先14:23でも使われています。

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。

ここで、「一緒に住む」の「住む」にあたる言葉が、2節の「住む所」という言葉と同じです。そして、ここで、弟子たちが、守る「わたしの言葉」とは、互いに愛し合いなさい、というイエス様の教えです。ですので、弟子たちが、イエス様を愛し、イエス様の愛に倣い、互いに愛し合う。次に、その弟子たちを、父なる神様は、愛される。そうして、その弟子たちの愛の共同体に、神様と、イエス様が共にお住まいなるというのです。神様とイエス様は、先ほど、見て来ましたように、愛において、一つの交わりにあるように、一体です。そして、同じ様に、愛の交わりの中にある弟子たちと、神様とイエス様は、共におられる、というのです。

もちろん、最後の晩餐のこの時、弟子たちは、イエス様がこのように語られていることの意味は、よく分かりませんでした。そして、迫り来るイエス様の別れの中で、不安で心が押しつぶされそうでした。けれど、イエス様が、十字架で亡くなり、復活し、さらに昇天され、ペンテコステの出来事が起こり、そして、聖霊で彼らが満たされた時に、イエス様が、ここで、語られたことを思い返したと思います。そうして、彼らの共同体が、愛で満ちた時、イエス様と神様が、ともにおられると、強く覚えたのです。ですので、このヨハネの福音書のみ言葉を通して、イエス様は、天の住処をこの地に作られる、つまり、愛の交わり生きる天の住処を、この地に教会として、建て上げられるのだと、語られていたのです。そうして、心を騒がせるな、とイエス様は、語られていたのです。

また、ここで、私たちが、特に、心に留めておきたいことは、愛の交わりにある教会が誕生した時、実際の教会も、心が騒ぎ立っていた、ということです。彼らは、イエス様を主と信じるゆえに、迫害にさらされる時代に生きていました。特に、このヨハネの福音書を執筆したヨハネを中心とするグループは、ユダヤ教から、迫害を受け、会堂を追放されていたと考えられています。そして、この地上において、自分たちは、みなしごではないかと、心が騒ぎ立っていたのです。それは、今、このような状況の中で、礼拝堂に、ともに集えず、ヨベル館の中で、ともに交わることの出来ない、私たちと同じような状況です。

でも、イエス様は、こう語られているのです。「心を騒がせるな。」「わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたの所に帰ってくる」「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」

愛のある交わりへと私たちを連れ戻してくださる。私たちを教会に戻してくださる。イエスさまは、わたしたちをみなしごにしておかないからです。だから、「心を騒がせるな。」と、イエスさまは語られているのです。そして、このために、イエス様は、十字架の道を歩まれたのです。

どうぞ、心さわぎ立つ、日々の中にあっても、私たちを受け止め、私たちの手を離さず、教会へと迎えてくださる、イエス様を見上げ、「心を騒がせるな。」というイエス様のみ言葉を、ともに聞いて参りましょう。そして、今、受難週の日々です。この地に、私たちの天の住処を建て上げて下さるために、イエス様が「十字架」へと歩まれた受難を見つめつつ、自分の罪に悔い改め、この世界の苦難を覚え、ともに祈りの手を合わせていきましょう。それでは、お祈り致します。

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