救い主イエス誕生の予告

松本雅弘牧師
詩編89編2-5節、20―27節、ルカによる福音書1章26-38節
2019年12月15日

Ⅰ.「神にできないことは何一つない」

先週、アフガニスタンで殺害された中村哲さんの遺体が日本に到着、葬儀がもたれました。クリスチャン医師として、アフガニスタンで医療に従事していましたが、それだけでは対応できないということで、灌漑用水を確保するための工事にも着手し、本当に素晴らしいお働きをしていたことです。そして世界中から、その死を悼む声が寄せられました。
そんな中、今日の聖書箇所は「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)という御言葉です。
ふと思ったのですが、遺族、関係者の方々、アフガニスタンの現地の方たち、そして私たちにとって、この天使の言葉は何を意味することなのか。この御言葉は、時に苦痛を伴うものなのではないかと思いました。
私たちは神が全能のお方であると信じています。逆に全能でないなら神の名に値しないと考えるでしょう。だからこそ、神が全能であるならば、何でこんな酷いことがこの世界に、私や私の家族、子どもたちの上に起こるのか、と複雑な思いにさせられるのです。
天使はマリアに現れ、「神にできないことは何一つない」と語るわけですが、そのメッセージを通して、神は何をなさろうとしていたのだろうかと思います。
ただ、ここを丁寧に読むとき、神の全能性に必ずしも強調点が置かれていないことに気づかされるのです。この「神にできないことは何一つない」を私なりに訳してみますと、「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない、不可能になるようなことは決してない」という意味だと思います。
天使の言葉は「神の語られた言葉は不可能ではない」という意味なのです。そのようにしてもう一度読み返すと、この時、必ず実現する言葉として天使が語ったのは、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」という言葉で、これは言うまでもありません「神のご計画/神の約束」です。
これに対してマリアはどう応答したのでしょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。
この時、マリアが使った「お言葉どおり」と言った、この「お言葉」とは、具体的には「神にとっては、その語られた全ての言葉は不可能ではない」という天使からの言葉です。ただ、打ち明けられたほうのマリアは大変でした。
しかし、それでも彼女は受け入れていくのです。ある注解者はマリアのこの言葉こそ、「信仰と献身の崇高な表現であり、彼女はそれの意味する犠牲をも甘受した」と解説します。私たちは、天使とマリアのやり取りから2つのことを考えてみたいと思うのです。

Ⅱ.マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる

まず第1は、マリアは自らを「主のはしため」と呼んだ点です。今日の箇所から改めて教えられたことは神のご計画は必ず、私たち、すなわち主の僕やはしためたちの参加を必要としているということです。
「あなたのご計画通り私をお用い下さい。私たちを通して御心が実現しますように」という祈りに導かれて初めて、神のご計画が実現する道が拓かれていくのです。
12月第1主日に洗礼式がありました。その時の問いの一つが「あなたは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」という問いです。
何かくどい言い回しです。わざわざイエス・キリストを「救い主」そして「主」と信じるか、と問うのです。実は、元々この式文は英語であり、「救い主」とは「ザ・セイビヤー」、「主」は「ザ・ロード」という言葉です。イエスさまを、罪から私たちを救い出してくださるお方としてだけではなく、その救い出された後、「人生の導き手」、つまり「主人なるお方」として従いますか、という問いかけなのです。
ですから、イエスを「主」と信じることは、そのお方に対して私は「主の僕、はしため」であることを意味します。もっと言えば、「主よ、あなたの言葉の通りになりますように」と祈り始める生き方をスタートしたということなのです。ここにマリアが示してくれた信仰者としての模範があるように思います。

Ⅲ.冒険としてのマリアの決断

2つ目のポイントは「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りが、大きな決断を前提とした祈りだった点です。私たちの毎日は決断と計画の連続です。
毎年12月の「みことばメール」では、「神の冒険」というメッセージを配信します。以前、高座教会に来られた東京神学大学の近藤勝彦先生が「神の冒険としてのアドベント」という言葉を使われたのです。「危険を冒して何かをすること」を「アドベンチャー/冒険」と呼びますが、それは「アドベント」から来ています。
「飼い葉桶と十字架は初めから1つである」と言われますが、神の冒険の結果が飼い葉桶であり十字架だった。とすると、私たちが従う神は、アドベントの神でもあられるので、私たちも冒険を迫られることがありうるということです。
ここに登場するマリアも冒険の神に従った結果、信仰の冒険を迫られました。マリアはこの時、十代だったといわれます。結婚しようとするヨセフに頼り、彼に全てを任せて生きていくことだけを考えていたでしょう。そうした彼女がヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それは想像もつかないような世界に足を踏み入れる「信仰の冒険」でした。
私がこの時のマリアだったら…、と思います。まずヨセフが理解してくれるかかどうか。家族が受け入れてくれるだろうか。ナザレの村の会堂の親しい仲間、そして村人達から何と言われるか分からない。そうしたことを考え始めたら怖くなったのではないでしょうか。でもルカ福音書を見ます時、マリアは実に自由に神に対して心を開いて決断しています。
それは1つの冒険でした。そしてこの時のマリアの決断があったからこそ、人類の、私たち一人ひとりの救いのためのご計画が、実際に大きく動き出して行ったのです。
このところで、天使が「おめでとう。恵まれた方」と、マリアに向かって呼びかけています。これは「既に恵みを受けた方」という意味です。
ある人は、天使のこの呼びかけはマリアの決断に先立って、すでに神の決断があったことを示す言葉なのだと語っていました。神がマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっている。マリアはこのように神が慈しみをもって選び、めでられた女性でした。
ただ、先ほども触れましたが、一般常識からすれば、御子を宿すということが、この時のマリアにとっては必ずしも喜びであったとは言えないのでしょう。
加えて、この後ルカ福音書を読み進めていくと、2章で、シメオンという老人が登場しますが、彼はマリアに向かって、「苦しみと悲しみの預言の言葉」を告げるのです。
そうした預言を聞かされ、マリアは複雑な気持ちにさせられたことでしょう。この預言の言葉が常に頭の隅にありながら、大変な子育てを始めなければならなかったわけですから。
しかし、そうしたことをよく知った上で、福音書記者ルカは、マリアが「神の愛の中に選ばれている者」であること、だから、「マリア、神の愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」と言って、今日のところで、その天使の「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)という言葉を、それだけの思いを込めて、このところに記録しているのでしょう。
神の恵みの決断、喜びを知らせる決断が、まず先です。そして次に、それを受けとるように、私たち信仰者が、神の恵みに応答していく。それが「信仰の冒険」です。
そして、私たちがどのような決断をする時にも、マリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)の表現を使うとするならば、まずは「神の言葉」が先だって在るのです。その「お言葉」を心の耳を澄せて聞いた者が、「あなたのお言葉どおり、この身に成りますように。」という祈りをもって応答していくのだと思うのです。

Ⅳ.神の決断に支えられ

皆さんのために、神は、どのような決断をしておられるのでしょうか? 私たちは、心の耳を澄ませ、その神のみ言葉を受け止めていきたいと思います。聖書は神がはじめ、働きは必ず実現すると語ります。パレスチナの片隅で始まった小さな幼子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いて行く。救いの完成にまで至る。その最初の1頁がおとめマリアの決断をもって始められたのです。
いかがでしょう。神がマリアを見るように私たちをご覧になっている。すでに慈しみをもって見ていてくだる。そして私たちのために御言葉を用意し、私たちも家庭や学校、職場、地域で神の救いのご計画の一端に参加するように召されています。
私たちも「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」とマリアのように、神の召しに心から応答する者として生かされて行きたいと願います。お祈りします。

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