救い主到来の宣言

<クリスマス礼拝>
松本雅弘牧師 説教要約
ミカ書5章1-4節a
ルカによる福音書1章39-55節

2021年12月19日

Ⅰ.喜びに溢れるマリア

クリスマス、おめでとうございます。主イエスのお母さんとして召されたマリアは、天使ガブリエルから信じられないような御告げを受けました。いわゆる「受胎告知」です。若いマリアが母親として召された。それも救い主イエスのお母さんです。マリアにとって、とてつもない大きな出来事でした。
当時、マリアには婚約者ヨセフがいました。まずヨセフのところに急いで行って話を聴いてもらってもよかったかもしれません。あるいは家族か所属するナザレの会堂長のところに出掛けて行ってもよかったでしょう。しかし、マリアはそうせず、「受胎告知」という大事件の余韻が冷めやらぬ間に、立ち上がって、大急ぎで山里に向かったのです。
ところで、ふと気づくと急ぎ足になっている自分を発見することがあります。そのような時、一度立ち止まり、「そもそも何で急いでいるのだろう?」と考えるようにしています。すると心配や恐れがあることに気づかされます。それが原因で気持ちが急いでしまっている。あるいは逆に向かう先にある楽しみへの期待感が急がせていることもあるでしょう。
この時のマリアはどうだったのでしょう?「マリアの賛歌」の冒頭に「私の魂は主を崇め」とあります。この「崇める」という動詞が継続を表す現在形で書かれています。「私の魂は主であるあなたを、今もずっと崇め続けています」という意味です。これに対し続く「私の霊は救い主である神を喜びたたえます」の「喜びたたえる」という動詞は、過去の動作を意味する形で、「私の霊は救い主である神を喜んでいた」となります。つまり、すでにこの時、マリアは喜んでいた。不安だったので、確かめようとしてエリサベトの許に行ったのではありません。彼女が急いでいたのは、その喜びに急き立てられていたから。それが、ここでルカが強調していることなのです。

Ⅱ.マリアとエリサベトとの出会い

喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。そして本当に不思議なのですが、エリサベトと会う時点まで、マリアの心の中にあった喜びがまだ歌になっていなかった。挨拶をかわし抱き合って喜んだ時、初めてマリアの口に賛美の歌が溢れたのでしょう。こうして歌われた賛歌が後の人が「マリアの賛歌」と呼ぶようになった歌でした。
ところで、旧約聖書を読んでいますと詩編147編やサムエル記上2章にある「ハンナの祈り」などがこの「マリアの賛歌」と実によく似ていることに気づかされます。専門家によれば、マリアはゼロからこの「マリアの賛歌」を歌い上げたのではなく、幾つもの聖書の言葉を用いて賛美しただろうと言います。
ですから、ここで注目したい点は何かと言えば、マリアが自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかったことです。御子イエスさまを出産するという恵みを独り占めしようとは思わなかった。むしろ旧約で歌い継がれた神さまの恵みに、自らも与っている一人の信仰者として、今こうしてエリサベトと一緒になって、互いに与えられた恵みを確認し、感謝しながら、それを歌にして歌おうとしている。「私だけではない、あなたにも、神の恵みが与えられている」と、信仰の歌、それも昔からの歌を、新たな思いを込めて歌ったのが、この「マリアの賛歌」だったということです。

Ⅲ.厳しい現実の中で、主を賛美することができる

このようにして歌われた「マリアの賛歌」の冒頭に「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」とあります。
この「喜びたたえます」の原文を確認すると「喜ぶ」という言葉だけでした。直訳すれば、「私の霊は救い主である神を喜びます」となります。ただ、聖書の教えによれば、神さまをたたえる/賛美することは、イコール神さまを喜ぶことなのです。まさにノリッチのジュリアンが、「神に示すことのできる最高の敬意とは、神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きることである。」と語ったとおりです。ですから聖書は、「喜ぶ」という意味を持つギリシャ語の言葉を少し膨らませるようにして、「喜びたたえる」とか「たたえる」と訳しているのだと思うのです。
ところで、今日はクリスマス礼拝です。神を礼拝することはイコール神を喜ぶことだと今一緒に確認したわけですが、実際、礼拝に集う私たち心の中に喜びがどれだけあるのだろうか、自分に正直に心の内を探った時に、果たしてどれだけ、神さまを喜んでいるのでしょうか?そう考える時、「喜ぶこと」は当たり前のようで、実は、必ずしもそう簡単ではないことに気づかされる。神の御前に吟味し、「喜びがあるか」と問われると、下を向いて黙るしかない状況があるかもしれません。
私は牧師ですので、毎週、説教の準備をします。日曜日ごとに講壇に立ち、御言葉の取次ぎをします。そうした私たち牧師にとっての難しさの一つは、私たち自身がいつも信仰豊かに喜びに溢れているかと言えばそうではない。正直言って、それが現実でしょう。教会の方たちからのお話、寄せられる祈りの課題や様々な情報、厳しさや不安や痛みが伝えられながら、それに対して何も出来ない、時に心が揺さぶられる経験もいたします。また自分自身の弱さや誘惑、家族や家庭のこともあります。目を外に向ければ、様々なニュースで心が揺れ動きます。まさに「神さまがおられるのに、何故?」と訴えたくなるような出来事に囲まれています。そうした一週間を過ごし、再び、主を喜ぶ日曜日がやって来るのです。
でも、いつも思うのですが、一週間かけて御言葉と取り組む中で不思議と恵みに与り、日曜日の朝になると、いただいた恵みを皆さんと一緒に分かち合いたい、喜びたいという思いにさせられる。まさにそれは「強いられた恩寵」なのだと思います。そして、これは牧師だけではありません。私たちすべての人に、「強いられた恩寵」がある。それは「礼拝を守る」ことです。礼拝を守り続ける。そのために時間を調整し、健康管理や様々な工夫をするのです。そうしたプロセス全てが私たち一人ひとりに与えられている「強いられた恩寵」、神が用いられる「恵みの手段」なのではないでしょうか。
コロナが完全に収まっていない今、礼拝動画が中心です。礼拝動画やズーム配信があるので地方に行かれた方たちも動画を通して礼拝を捧げることができると、喜びの声を聞かせていただきました。それは本当に感謝なことです。しかし一方で、いつでもどこでも見ることができるという便利さが信仰生活の緩みにつながることも大いにあるのではないかと思いうのです。独り子イエスさまが飼い葉桶に生まれ、十字架にかかり、復活されたのは、神が本来意図された、本当に人間らしい生活、神との関係という人生の縦軸をしっかりといただき、神を神として生きるため。一言で言えば、礼拝の民の一員として生きるためでしょう。

Ⅳ.さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での「日向ぼっこ」

最後にもう一度マリアの賛歌に戻りますが、ここでマリアは「私の魂は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と主なる神さまを礼拝しているのです。彼女の喜びの源泉はそこにありました。ところで、井上洋治という神父が、祈りについてこんな風に語っていました。「私にとって祈りとは、何よりも、さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』である。」私は、井上神父の「祈り」という言葉を礼拝と置き換えてもよいのではないかと思いました。「礼拝とは、何よりも、さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中での『日向ぼっこ』である。」
身分でもない、性別でもない。今まで、偉大な神さまは偉大な人々にしか目をお留にならないと思っていたのに、そうではなかった。「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中で」、マリアの言葉を使うならば、「卑しい仕え女」に過ぎないこの私に目を留めてくださったことに気づいた。そして偉大なことをしてくださったことを知らされた。そのようにして、この私を愛してくださっている。マリアはそうした一つ一つの恵みを受け取り直したのでしょう。そうした一つひとつの恵みが、彼女にとっては驚きであり大きな喜びであったのです。
私たちに必要なことは「さんさんとふりそそぐ神の愛の光の中」、すなわち、慈しみ深い神さまの御前に自分自身を置き、光に照らし出された、生活の中ですでにいただいている一つひとつの神の恵みに気づくことなのではないでしょうか。
今日は、マリアにもたらされたクリスマスの恵みを共に味わうことを通し、実は、すでに私たちにも、神の恵みが与えられている。礼拝を通し、神の御前に共に私たち自らを置くことを通して、クリスマスの恵み、そして再び来られる主に期待できることを、心から感謝したいと願います。お祈りします。

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