沈黙を通して見えたもの

松本雅弘牧師
詩編77編1-21節
ルカによる福音書1章5-25節
2020年11月29日

Ⅰ. ザカリアに起こった出来事

ザカリアは「神に覚えられている人」という意味の名を持つ祭司でした。その名前の通りに、神さまはザカリアを御心に留め、その祈りを覚えておられ、そしてそのザカリアの祈りに応え、天使を通し彼とその妻エリサベトに念願の子どもをお与えになるという出来事が成就した、と今日の御言葉は伝えています。

Ⅱ.沈黙の恵み

およそ10か月間余りザカリアは沈黙を強いられました。祭司という仕事柄、大変なことでした。経験したこともないような不自由さが続く。でもこれはザカリアだけではなく、私たちも同様の経験をすることがあるのではないかと思います。失敗や過ち、病気など思いがけない状況に出あう時、モノを言う元気すらなくなってしまう。それまで自信を持って語って来たのに。ところが一転、厳しい現実に直面し沈黙するしかないのです。
妻のエリサベトも同じでした。「妻エリサベトは身ごもって、5か月の間身を隠していた」(24)とあります。「身を隠す」を口語訳は「引きこもる」と訳しています。彼女も夫と共に沈黙し引きこもったのです。ゆっくりとした時間の中で二人とも黙っている。すると不思議と自らの魂との対話が始まり、神さまとの対話も始まっていったのです。
私は、この夫婦がこの沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。その証拠に10カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉でした。ザカリアはこの沈黙の期間、天使の言葉の一字一句を味わったに違いない。妻と共にその恵みの時を共有した。ある牧師が、「教会の礼拝は、私たちの知恵が黙る時であり、教会とは私たちが沈黙を学ぶところだ」と語ったそうです。なるほど、と思いました。彼らの息子ヨハネが成人し、洗礼者ヨハネとして世に出た後、それに続くようにイエスさまも公生涯を始めます。イエスさまは多くの教えをお語りになったわけですが、その教えを一言で言えば、「神の御心がなるように」ということです。自分の願うところではなく、神さまの願うことが成就するということでした。

Ⅲ.礼拝を守っているのに、礼拝のリアルな恵みを期待していない?

この時代、ユダヤには1万8千人から2万人の祭司がいたと言われています。その中からたった一人が当番に選ばれるのは物凄く低い確率でしょう。それがザカリアに起こりました。そしてこの務めはとても重要で、なおかつ光栄なものでした。だからこそ緊張する務めでもありました。「間違いのないよう、一つひとつが順序正しく滞ることなく執り行うことができるように」というところから来る緊張です。私は牧師をしていますので少し分かるような気がします。このように考えますと、ある意味で祭司という務めは決まったことを決まった通りに行う仕事です。それゆえ保守的にならざるを得ません。ですから当時、祭司は型通りのやり方しかできない人というレッテルを貼られ批判されることもあったようです。
そうした祭司ザカリアが緊張感をもって儀式を進めていた時、天使が現れたのです。それを見た彼は不安になり恐怖の念に襲われました。考えてみれば、これは皮肉な話です。この時ザカリアは、目に見ることは出来ませんが、生ける神の御前に出ていたはずです。その祭司たるザカリア先生が、生ける神さまの臨在に触れた時に、不安になったのですから。
ある人は、この場面のザカリアの様子を「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語ったそうです。神さまに邪魔されたので慌ててしまった。順序正しく滞ることなくやろうとしていた。ところが間違いをしでかしたので慌てたのではありません。誰かに邪魔されたからです。他でもない神さまが入り込んで来られたからなのです。ここでザカリアは慌て戸惑っています。何十年と神に仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神のリアルな働きに触れ、おじ惑っている。本当に滑稽です。でも私たちは、こうしたザカリアを笑えるでしょうか。これは私たち一人ひとりに関わる問題だと思うのです。
私たちは今日も礼拝に招かれてきました。今はコロナ禍で、40分前後で全てが終わります。1つひとつの式順に従って礼拝は進みます。でも、そうした礼拝、日々のディボーションの時でも結構です。私たちは礼拝を守り、日々の御言葉と祈りの時を大切にしているかもしれませんが、もしかしたらただそれだけ、ザカリアのように外から介入されたくない、それによって不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされるのです。でもよくよく考えるならば、私たちが礼拝に集い、日々、ディボーションの時を守っているのは、その礼拝で、そのディボーションの時に、神さまに触れていただきたい、神さまに、今の私の人生に介入していただきたいからなのではないだろうか。それが私たちの本当の願いなのではないだろうか。この時、神さまは、ザカリアのその願いに応えるように、彼の人生に介入なさった。ところが、そうした神の直接介入は、ザカリアにとっては驚きであり、不安であり、恐怖でもあったのだ、ということなのです。

Ⅳ.沈黙を通して見えたもの

このことは裏を返したら、私たちの生活が神さまに介入されたら困るような生活になっていないだろうか、と考えさせる出来事のように思います。
私たちは自分で自分の人生を設計したいと思います。学生の頃、一般企業に就職する時も困らないようにと、一応、それなりの成績だけは残しておこうと努力しました。でもその頃、神学校に行くことが分かっていたら、もっと別の時間の使い方をしていたのではないかと思います。神学校で学んでいた頃、もっと勉強を続けたいという希望がありました。でも神さまは、卒業後にすぐに教会に仕えるようにという別の計画を用意しておられました。
私たちは自分の人生を自由に設計しようとするわけです。でも信仰を持ち神さまとの交わりが深まる中、心の中に一つの不安のようなものが生じることです。それは「私の願い、私の計画が、果たして神さまが願われることなのかどうか。私のために立てた計画と同じかどうか」という問いが起こるからです。そうした問いがあるのに気づいたならば、一度立ち止まり、神さまの語りかけに耳を傾ける必要があります。手順通り物事が進むようにという思い、いやその手順それ自体を、もう一度神さまの御前に差し出し吟味することが必要になります。この時、神さまがザカリアになさったのは、そのことだったのではないでしょうか。
先日お話しました創世記のヨセフもそうでした。ヨセフは計画を思い描きました。牢屋にいた給仕役の長の夢の解き明かしをし、その通りに牢屋から解放された時に、その給仕役の長がヨセフの身の潔白を証明することで、ヨセフが牢屋から解放されるという計画を思い描いていました。ところが神のご計画はもっと壮大だった。仮に彼の計画通りに解放されたら、二年後にファラオの夢の解き明かしは実現しなかったかもしれない。そして、ファラオとの出会いがなければ、彼が総理大臣になることも、そしてもっと大事なことですが、ヤコブの家をはじめ、エジプト全土、その周辺諸国の人々の救済も難しかったでしょう。もう絶妙なタイミング。これが神さまのご計画でした。
神さまは、私たちが握りしめている宝より、もっと素晴らしい計画を用意しておられる。預言者エレミヤは「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)と語りましたが、そのことを受け止めるために、一度、動きを止める、ザカリアのような10か月が必要かもしれません。箴言に「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(箴言16:9、口語)とあります。私たちの側に神さまの介入を受け入れる余地が必要なのです。
カール・バルトは、「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と語りました。神に妨害され、神のご介入が起こった時はじめて、私たちに本来の恵みの生活が始まる。実はすでに始まっている。沈黙し立ち止まり、神が用意しておられる新たな計画をしっかりと受けとめることができますように。お祈りします。

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