洗礼者ヨハネの証し
松本雅弘牧師
イザヤ書61章1-4節,8-11節、ヨハネによる福音書1章6-8節、19-28節
2019年12月8日
Ⅰ.ヨハネ福音書の降誕記事
ヨハネによる福音書は、4つある福音書の中で最後に書かれたものであると言われます。
ヨハネが福音書を書いた頃、イエスをキリストと告白する者がいれば、公式に会堂から追放することをユダヤ教側の人々が決めていた。そのようにクリスチャンたちにとって厳しい状況の中で、この福音書は書かれたものでした。そのように考えて今日の聖書の箇所を見ると、主イエスこそ救い主であること、主イエスが神の独り子であること、神さまによる恵みと真理が主イエスによって現されたことなどが強調されていることに、改めて気づかされるのです。
Ⅱ.証言者としてのヨハネ
「光」なる「言」のことを証言する人物として洗礼者ヨハネの名前が示されています。福音書記者ヨハネは、あくまでも主イエスこそがメシアであり、ヨハネ自身はメシアではないことを主張しました。
ところが、人々の中にはヨハネがメシアではないかと考える者もあったのです。これに対して、イザヤ書40章3節を引用し、ヨハネは自分の役割は主の道を整えることだと説明したのです。このように洗礼者ヨハネは主イエスについて「語る」ために神さまから遣わされました。
ギリシャ語で「語る」という言葉は、「見たことを証言する」と言う意味があります。ですからヨハネは証言者でした。
Ⅲ.人生に縦軸(神との関係)のある人ヨハネ
ある時、主イエスはヨハネを指して、「女の産んだ者の中で、最大の人物」と称賛されたことがあります。そのヨハネは理不尽極まりない仕方で殉教の死を遂げるのです。
時のユダヤの権力者ヘロデが、自分の兄弟から妻ヘロディアを奪い、彼女と結婚するという事件が起こりました。それを知ったヨハネが「その結婚は律法で許されていない」と主張し、ヘロデ王の罪を糾弾したからです。
しばらくしたある日、その日はヘロデの誕生日で妻となったヘロディアの連れ子、サロメが父親となったヘロデに誕生日のプレゼントということで踊りを披露します。
ヘロデは大いに喜び「欲しいものがあれば、何でも言いなさい。お前にやろう」と言ったのに対して、サロメが、母親ヘロディアに相談し、「洗礼者ヨハネの首」を求めたことでヨハネは殺されていきました。
福音書には、その後日談が出て来ます。主イエスの活躍の様子がヘロデの耳にも聞こえて来たとき、どういうわけか、主イエスのことを「自分が殺したヨハネの生まれ変わりだ」と勘違いし、物凄く不安になったというのです。
さてヨハネは主イエスの先駆けとして活動を始めて行くなか、ある程度、自分の死を予測できたのではないかと思います。ところが、福音書を読む限り、死と隣り合わせのところに置かれていたはずのヨハネが、恐怖に怯え、何かを後悔している形跡が全くないのです。むしろ、とても小気味の良い! 信じる道をまっすぐ歩き、びくともしないのです。
聖書が伝える洗礼者ヨハネの生涯を見るとき、本当に彼は自分自身に満足しています。自分を取り巻く状況は大変厳しいのですが、心は穏やかなのです。確信に満ち、恐れや不安から解放されていたのです。何故ならヨハネは、真に恐るべきお方である神さまを知っていたからです。正しくないことがあれば、ヘロデであろうが誰であろうが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言うことが出来たのです。常に霊に燃え輝いていました。それに対し、権力を持つ側のヘロデは恐怖におののいていました。主客転倒が起こっているのです。
権力、地位、財産、支配の力は、表面的には強く見えても実質は無に等しい。しかも死と隣り合わせです。これに対して、優しさ、愛、良心、信じること、望みを抱くこと等は確かに弱く見えても、実は権力も太刀打ちできない強さがあるのです。
まさに福音書記者ヨハネが「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネの手紙4:18)とその手紙に記した通りです。
洗礼者ヨハネとヘロデの姿は好対照なものとして、この違いを、実に鮮やかに示しているように思います。洗礼者ヨハネの生き方、それをひと言で表現するならば、「人生に縦軸を持つ生き方」でしょう。
聖書は、私たち人間が的外れな生き方をしている場合、その生活の中に必ず「自己中心」と「虚栄心」として現れてくることを教えています。「自己中心」とは「自分が、自分が」という思いです。自分の願いを叶え、自分の欲望を満たすために人を利用するような思いです。
「虚栄心」とは「等身大の自分」を受け入れることが出来ないために、背伸びをして生きる心です。神しか満たすことの出来ない隙間がぽっかりと空いていて、それが大きいが故に必死になって「神の愛」以外の何かをもって満たそうとする。また心の深いところで「自分はダメな人間だ」と思っているので、背伸びし、自分をよく見せるようにして虚栄を張るのです。繰りかえしますが、本来、神に造られ愛されているはずの私たちが、造り主から離れて生きようとするとき、必ず自己中心となり、虚栄を張って生きるしかなくなると聖書は教えています。
それに対して、洗礼者ヨハネはそうした生き方から解放されていました。自分に満足できない人は決して他人にも満足できません。それがヘロデの問題であり私たちの問題でもあります。
これに対して、神の恵みと愛とを十分に実感するとき、自分自身に満足してくるのです。神から、このままの姿で受け入れられていますから、背伸びをする必要もない。人と比べることからも解放されていきます。「私は私でいい」と心の深いところに満足を覚えるようになります。
私たちに必要なのはこの恵みです。神さまに出会い、御言葉をいただき、心に栄養をいただくことが本当に必要なのです。
このようにして洗礼者ヨハネと王ヘロデを比較するときに、人生に縦軸を持っているかどうか、神さまを知っているかどうかが本当に問われてくるのです。
Ⅳ.「現代のヨハネ」として召されている私たち
ヨハネ福音書1章、6節以下に「証し」という語が3回も出て来ます。つまり洗礼者ヨハネは、まさに「光について証しをするために来た」証人なのだと福音書は伝えています。そしてもうひとつ、私たちが光である主イエスを証ししようとするときに、洗礼者ヨハネ同様に、光なる主イエスと向き合う必要があるということです。
パウロはコリントの信徒に宛てて、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリント4:5-6)と語りました。
私たちがキリストと向き合うときに、ちょうど月が太陽の光を身に受けて輝くように、光なる主イエスの素晴らしさを反映し、私たち自身が、洗礼者ヨハネのように証し人として輝かせていただけるのです。
ある意味、洗礼者ヨハネも困ったようです。人々に洗礼を授け、悔い改めを勧めていたのですが、多くの人が、洗礼者ヨハネが救い主ではないかと言い出したからです。ですからヨハネは、「そうではないのです。救い主について証しをするために来たのです」と、自分の役割をそのように受けとめているのですが、周囲の人々は身勝手なことを言いました。
それだけヨハネが光り輝いていたからだと思うのですが、そうした人々に対してヨハネが「声を張り上げて」主イエスを証しする姿が紹介されています。何故そこまでしたかと言えば、他の誰でもなく主イエスを見つめることが大切だから、これこそが、私たちが輝く唯一の道だから。それは洗礼者ヨハネ自身が経験したことであり、それを伝えたかったのです。
主イエスを見つめると、私たちは自らの罪に、闇に気づかされる。でも罪や闇に気づくことは、私たちにとって本当に必要な第一歩でしょう。何故なら、そのことを知った者は光を求めるからです。罪からの救い主、主イエスを求め始めるからです。闇の中に光が灯されるとき、その光の周りからスーッと闇が消えて行きます。私たちの心の中に暗闇があることに気づき、その闇を追い出そうとしても出来ない。どうすればよいか? そこに光を招き入れるときに初めて、そこから闇が消滅するのです。私たちの人生に主イエスをお迎えするということはそういうことです。
「まことの光」として「すべての人を照らす」お方として、キリストはおいで下さいました。光なるお方と向き合って生きるときに、キリストは、罪深い私たちをも、その光を反射させる者、光の証し人としてくださるのです。お祈りします。