生ける神のみ前で
松本雅弘牧師
イザヤ書5章7-17節
マタイによる福音書26章57-68節
2020年11月8日
Ⅰ. ユダの裏切り
12弟子の1人であるユダが先頭になって、祭司長、長老たちから送られてきた群衆を引き連れてやってきたのです。やって来た人々はその手に剣や棒がありました。そうした中、ユダは主イエスに近寄り、「先生、こんばんは」と接吻したのです。それを合図に人々はイエスを捕らえようとしました。ところがペトロが剣を抜いて主イエスを守ろうとする。主は「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」と語られ、自分の力や知恵でどうにかしようようとする誘惑から弟子たちを守ろうとなさる、その霊の戦いの最中です。弟子たちは皆、主イエスを見捨て逃げてしまったのです。
Ⅱ.裁かれる神の子
そのようにして人々は主イエスを捕らえ大祭司カイアファの屋敷に連行すると、そこには最高法院全員が集結していたのです。この時、主イエスを裁いた人々は、神によって選ばれ、立てられたと自他ともに認め、一生懸命に聖書を学んでいた人々です。
ところで11月第5週から待降節が始まります。今年はルカ福音書を御一緒に読みながらクリスマスに向けての備えをしますが、そのルカ福音書には、誕生したイエスさまを両親が宮詣に連れて行ったとき、そこにシメオンという名の老人が登場する出来事を次のように伝えています。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(ルカ2:25-26)すなわちシメオンの正しさと信仰の厚さを、救い主メシアの到来への待望の思いと重ねるようにして伝えています。だとするならば、今まさに主イエスを裁くために集まった最高法院のメンバーである大祭司をはじめとする民の指導者たちは、シメオン同様、当然、メシアの到来を待ち望み、日々、祈りを捧げていた人たちであるはずです。そのメシアが今自分たちの目の前に現れている。だとすればシメオンのように、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(ルカ2:29-30)と賛美してもよかったはず。いや賛美すべきでしょう。でも、そうしません。いや、そうできなかった。それどころか不利な偽証をする偽りの証人まで立てて、救い主を死刑にしようとたくらんでいたのです。
Ⅲ.最高法院による裁判
ところで、大祭司カイアファによる裁判には少なくとも2つの注目すべき点があるように思います。その一つ、主イエスの神殿に関する発言を巡ってのやり取りです。ユダヤの裁判では証人は必ず2人立ち、彼らの証言が一致しなければ、証言は無効とされます。マタイによれば、「偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった」とあり、さらに「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた」と伝えるように、真夜中のこの時間に証言するために集められた人々は皆、大祭司たちによって金を握らされた、いわゆる雇われ証人だったのです。そうした中、最後に登場した2人は一致した証言をしたのです。それは、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」という証言でした。これを聴いた大祭司は、鬼の首でも取ったような興奮を覚えたのでしょうか。思わず立ち上がってしまった。そして主イエスに向かって、「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」と責め立てたのです。
そう言えば、数日前、確かに主イエスは「この神殿は崩れる。神の手によって崩される。三日の後に建てる」と言われたことを覚えています。神殿は崩れる。最高の収入源であった神殿が壊され、「三日後に建てる」という新しい神殿の出現の予告は彼ら大祭司たちからしてみれば決して許容できない出来事でした。
2つ目は、「神の子、メシア」に関わるやり取りです。「お前は神の子、メシアなのか」と。そしてそう質問できたということは、イエスをメシアだと認めていないことの証拠でした。むしろそう問うことで、主イエスの口から、彼らが思う神への冒涜罪に当たる決定的な証言を引き出そうとしていた。しかも、恐ろしいことに、「生ける神に誓って我々に答えよ」とまで言っています。ここで今まで黙秘していた主イエスが、初めて口を開かれておっしゃったのです。「それは、あなたが言ったことです」。ちょっと分かりにくい日本語ですが、分かり易く言えば、「あなたの言ったとおりです」という意味です。それはまさに、ここでは「証し」、真実を明らかにする「証言」が求められていたからなのではないでしょうか。自分は「生ける神の子であること」と生ける神のみ前で証言されたのです。
Ⅳ.ねたみの裁判
このように、裁判の風景を見てまいりますと、実に滅茶苦茶な裁判です。マタイによれば真夜中に、日本で言うところの国会議員全員が招集されたのです。よくこれだけ偉い人たちが夜中にかかわらず集まることが出来たと思います。そしてこの時彼らが、何が何でもやりたかったこと、それは主イエスを殺すことだったのです。福音書記者マタイはそのことを見抜いていました。マタイ27章18節を見ますと、「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」とはっきりと語られているのです。
「ねたみ」とは何でしょう?それは人のことを羨ましく思う思いです。それだけではなく、もっと積極的に、その人が失敗すること、その人の身に災いが起こることを積極的に願う思いで、しばしば競争心や争いの種になる思いです。福音書はこの「ねたみ」が原因となって主イエスを十字架につけたのだと教える。そして、そのことを思い巡らす時、実は「ねたむ思い」が彼らだけの問題ではなく、私たちにとっても大きな問題であることに気づかされるのではないでしょうか。正しいと分かっていてもねたみがあると、私たちはそれを実行できない。ねたみのゆえに、そうしたくないからです。終いには争いが始まる。パウロはそうした私たちに向かって、「以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」(5:21)とはっきりと語ります。
ある牧師が、この時の大祭司が心に抱いたねたみについてこう分析していました。「大祭司もまた宗教家だった。…神について語ることが多く、聖書について語ること多かった時に、自分よりも、もっと激しい、しかも魅力ある言葉をもって、人々に神の道を説くイエスが現れた。そこで妬みを抱いたということは明らかであります。恐ろしいことです。そこでひとりでも多くの人が、自分の手では及ばなかった人々が、ひとりでも多く救われるのを見て、神に賛美を捧げるよりも、その人の口を封じ、その人の手を縛り上げることに、この人の心、そしてその仲間の心が動いたということは、恐ろしいことであり、悲しいことであります。」
主イエスがこの時、有罪と判断された一つの理由、それは「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と真実を語ったからです。そう言えば、つい数日前、弟子たちに対しても神殿を指さして、「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」とおっしゃったことを思い出します(マタイ24:2)。「この神殿は崩される。神が住まわれる神殿は、もはやこのような建物として造られることはない。神殿に神さまが閉じ込められ、その神殿を我が物として私利私欲のために利用されるようなことはなくなる」とおっしゃった。でも、「三日後に」ご自身の血と復活の命とをもって新たな神殿をお建てになると宣言されたのです。その神殿こそ、私たち教会、聖霊を宿す私たち自身のことだったのです。私たちは本当に悲しいことに、本当に残念なことに心の内側に、このねたむ思いがあることを認めざるを得ない。しかしそこから解放される恵みが既に与えられている。それは主イエスがご自身の血と命とをもって打ち立ててくださった、新しい神殿、すなわち私たちが聖霊を宿す神殿になったこと、私たちのうちにキリストの命がある。ですからパウロは、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:25-26)と語る。主イエスはこの恵みを実現するために、ここで裁判にかけられ十字架へと進んでいかれたのです。
お祈りします。