社会人と信仰の問題点
2016年10月30日
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ペトロの手紙一 2章13~25節
Ⅰ.はじめに
今月は歓迎礼拝で「社会で働くクリスチャン」というテーマでメッセージをしております。
昔と違って今は仕事をする環境も、大きく変わったと思います。人との繋がりもインターネットの普及で、大きく広がりました。今の時代はルールをしっかり守らなければならないという法令遵守が厳しくなってきて、社会も明らかに不寛容になりつつあるように感じました。そのことを「不寛容社会」などといったりする時代です。
Ⅱ.ペトロが手紙を書いた時代
今日の聖書個所のペトロが手紙を書いた時代も、不寛容な時代でありました。この手紙はローマにいたペトロが、一世紀末に迫害の中にある教会に宛てて書いたものです。迫害の中で、キリスト者としてどう生きるべきか? このことをペトロはここに記しています。
13~14節には「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと・・・総督であろうと、服従しなさい。」とあります。ペトロは手紙を読んでいる、迫害の中にいるクリスチャンに対して、「人間の立てた制度、皇帝や総督達に従いなさい」と勧めています。一般的な考えでは、これとは反対に自分達を苦しめる政府や企業や上司に従うことなどできるものか? と思うのが正直な思いです。
また、続く15節で「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」と記しています。先ほど、今の日本の世の中が不寛容だと申し上げましたが、少し前の時代までは、ヘイトスピーチのような人種差別的な発言や、障碍者の存在を否定するような不寛容な考えが、これだけ表にでることはなかったように思います。「愚かな者たちの無知な発言」これを封じることは、神様の御心だとしています。それにはまずこの社会の一員として、国や会社や組織の中で、その制度に従い、善を行うように勧めているのです。「そうは簡単に言うけれども、難しい」と言いたくなることが書かれています。
しかし、これはペトロだけではなくて、パウロも同じように指摘していることです。パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。・・・」「権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ書13章1~2節)
このパウロとペトロの教えは、イエス様から教わったことを反映しています。イエス様は
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。これは、信仰者は抑圧されているローマ帝国に対して、税金を払うべきか?との質問にイエス様が答えたものです。私たちは神の民だから、神の御心に適うようにいきなさい、しかし税金は税金で所属している国に対して払いなさい、というものでした。
これは、この世の中で権力をもった人々との付き合い方について、ひとつの示唆を与えてくださった言葉です。イエス様は「この世の権威に従うな」とは決して言っていません。パウロもペトロもこの教えを受け継いでいます。キリスト者としての生き方を、しっかり定義しています。
先ほど話しましたとおり、当時はクリスチャンに対する迫害がありましたが、その時彼らは反乱を起こすのではなく各地に散っていきましたが、ユダヤ人はローマに反乱を起こしました。エルサレムが陥落した後も、ユダヤ人達は反乱を続けました。また他の地域でもローマ帝国の圧政に対する反乱は絶えずありましたが、その中でも当時のクリスチャンは政治的反乱、反逆をしなかったのです。ただ迫害があるたびに、各地に散っていきました、それはなぜか?
先ほどの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエス様が言わんとされていることは、キリスト教の世界観はローマ帝国を超越しているからです。税金を払う義務は守るように、しかし国籍は天国にあるのです。
先ほども触れましたローマ書13章1節「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
私たちの住む国や会社やあらゆる組織は、すべて神様の権威に由来したものです。この国の政治家も経営者も、あらゆる管理者も神の権威の基(もと)にあります。
イエス様がもたらした神の国は、この世の被造物すべてを覆うものです。その中に、ローマ帝国が、ギリシャや日本も、会社も学校も入っているのです。その中に私たち人間は、置かれており、自由の身です。どこの国、どこの人種、どこの職場や家庭においても神の国に住む、自由な者とされました。
Ⅲ.キリスト教世界観
しかし、せっかく自由の身となっている私たちも、かつてのユダヤ人が、ローマ帝国に抵抗するように、「自分と職場」、「自分と学校」、「自分と世の中」を、それぞれ対峙させてしまう、過ちをしてしまう事があります。「教会と職場」「教会と学校・家庭・政治・地域社会」とを分けてしまう。神の国と、そうでない国があるかのように分けてしまうのは、神様ではなくて、私たちです。ペトロの手紙2章16節にあるように、神の国に住むわたしたちは、神の僕であり自由な者です。
先ほど、神の国は、この世の被造物すべてを覆うもの、その中に職場も学校もあるのだと、いいました。これが「キリスト教世界観」という世の中の見方です。この「キリスト教世界観」をもう一つ身近な視点で見たいと思います。
例えば、今日教会の門を入って直ぐ右側の花壇に目を向けましたら、ブルーの花が咲いていたのですね。「ああ綺麗だな」って思うのです。でもそこまででしたら、神様を知らない一般の人達と同じです。私たちは信仰の眼差しで見た時、神様が造られたデザイン、不思議な秩序の中にある色合いや形に、思いを馳せることができる。そうすると、私たちが人生で出会うことになったお一人、お一人にも同じ眼差しを向けることができるはずです。
他の人から見れば、よくあるような人との出会いも、偶然ではなく、神のご計画の中で備えられた大切な出会いであると思うのです。ペトロの手紙に戻り2章18節のように、人間関係の中で、無慈悲に感じる時、私たちクリスチャンはどのように生きるか?この事が問われます。愛によって善を行い、しかし相手の言葉や態度によって苦しむこともある。しかし、ペトロは語りかけるのです。周囲の人達は分からなくても、イエス様は知っておられる。神様が望んでおられることを自発的にするだけだ、そう確信することによって、私たちは、自分の人生を肯定的に生きることができます。これがペトロの言う「自由」です。
この新約聖書が書かれた時代、ローマ帝国が栄えた時代にキリスト教は、瞬く間に広まっていきました。その要因はいくつかありますが、各地にいたキリスト者が善良で、周囲にたいへん好意をもたれていたことが、あったそうです。地の塩・世の光となって広がっていきました。社会の中で小さくとも光を放つことができれば、やがて他の同じ光と繋がって、光の輪は世の中を変える力となります。
先日、本屋に行きましたら渡辺和子さんの『置かれたところで咲きなさい』という本が目にとまりました。置かれたところで咲く、というのは、そういうことかも知れません。その場に置かれたのは、神様の御心、神様のご計画があるはずです。
Ⅳ.まとめ
私たちは、「自分の信仰生活」と、「この世の社会生活」を区別してしまうという問題を作ってしまいます。その対立軸からは、世の中に光を放つことはできません。世の中の「不寛容」に「不寛容」で報いてはならないからです。私たちは不寛容には「赦し」をもって、それぞれ、置かれている場所で咲くだけではないでしょうか。なぜなら、わたしたちの罪の為に、イエス様がかかられた十字架、それは「赦し」だからです。
今月は「社会で働くクリスチャン」というテーマで、4人の方が証しをしてくださいました。みなさんも、それぞれ置かれた場所で、十字架の証し人として、歩んでいきましょう。