神に栄光、地に平和

松本雅弘牧師
イザヤ書25章1-9節
ルカによる福音書2章1-20節
2020年12月20日

Ⅰ.信仰を持つことの不思議さ

私たちの信仰は、イエスというお方に深く関わりを持つ信仰です。そして最近つくづく思うことですが、ほんとうに信仰を持ってよかった。信仰を持っていなかったら、今頃、どんな生活をしていたことだろうと思うことがあります。クリスチャンになることは、イエスさまを愛する者になることであり、そのお方の愛の中にあることを確信しながら日々生かされることでしょう。ただ、クリスマスを迎え、改めて思いますのは、信仰を持つということはとても不思議なことなのではないでしょうか。クリスチャンになるとはイエスさまを愛する者になることであり、そのお方と関わりを持つことです。ところが、そのイエスさまは2千年前に生きた人物です。しかも遠く離れたパレスチナで活動した方です。そのような方と時空をはるかに超え、場合によっては家族よりも深いかかわりの中に生きる。これは本当に不思議です。

Ⅱ.世界で最初のクリスマスを祝ったのは父なる神だけ

今日の箇所でルカは淡々と事実を伝えているように見えますが、実はとても大切なことを伝達しようとするルカ自身の意図が伝わって来るように思うのです。それは、ヨセフが向かって行ったベツレヘムは「ダビデの町」だったということです。ヨセフはダビデの家系に属する人でした。ですからベツレヘムはヨセフにとっての故郷、そこに住民登録のため戻ってきた。そしてイエスさまがお生まれになった。ここでルカが語っているのは「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれたイエスこそ真の王なのだということです。
もう一つ、ルカが伝えようとしていることは、イエスの誕生を当時の人々は誰も知らなかったという事実です。勿論この後、羊飼いが御子の誕生の知らせを受けるわけですが、それはあくまでも例外、世間一般の人々は誰一人、イエスの誕生を知らなかった。ですから祝いもしなかった。もっと言えば、お祝いしたのは父なる神さまだけだったのです。
さて、イエスさまのこうした誕生をルカはさらに別の視点でとらえ、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と伝えています。アウグストゥスの時代には、長きにわたって平和が続きました。一般に「アウグストゥスの平和」と呼ばれます。人々は、「戦争のない、こうした平和な状態が続くのは、皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と語り、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇めた人々も出たそうです。そうした彼の誕生日を「福音」と呼んだ人々もいました。元々は「良き知らせ」という意味するのですが、それをアウグストゥスに当てて使っていたというのです。
そうした上で11節を見ますと、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と語り、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に使った「救い主」の呼称をイエスさまに当てて使っている。天使は飼い葉桶の赤ん坊を指しながら、「アウグストゥスではない、こちらのお方こそがまことの救い主なのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の救い主なのだ。最強の王、名君と褒め称えられた皇帝アウグストゥスの治世に、実は、もう一人の王が誕生した。そして、この方こそメシア/キリスト・イエスなのだ」、そう確信を持って記しているのです。

Ⅲ.世界の片隅に生まれた救い主

ところで、本を読んでいますと、時々目に留まることがあります。それは、イエスの誕生が当時のローマの歴史にほとんど記録がない、一般の世界史には記録されていないということです。そのような意味で、ルカ福音書2章1節と2節に出て来る記録自体の信憑性が疑問視されてきた経緯がありました。18世紀以降、ヨーロッパを中心とする聖書学者たちの間で、いわゆる科学的、歴史的と言われる福音書研究が始まる中、特にイエスという存在に批判的な立場をとる学者たちが最初に問題視したのが、このルカ福音書2章の1節と2節の記述だったと言われます。この箇所はイエスさまの誕生の出来事と一般の歴史の出来事が交差する場面です。ですので、学者たちはこぞって、ルカの記述とローマ史の記録とを比較検討したのです。その結果、多くの聖書学者が、福音書記者ルカが書いていることは歴史的に正確なものとは言えないと結論づけ、さらにそうした議論の延長線上で、そもそも「イエス」などという人物も実在しなかった、それはキリスト者のでっち上げに過ぎないと言った主張さえも出て来ました。
ところが、その後、大きく学説は変わっていくことになります。考古学の発掘や、エジプト、その他の地域で発見された碑文などの研究が盛んに行われるようになったのです。その結果、これまでの学説が一つひとつひっくり返されていきます。そして今では、福音書記者ルカの記述の正しさが立証されて行くことになったからです。こうしたことを踏まえ、私たちがこの福音書を読む時に、決して見落としてはならないルカが私たちの目を向けさせようとしている点があります。それはアウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施される最中に、世界の片隅の、ほんとうにひっそりとした夜に、もう一人の王、いや真の王である救い主イエスが誕生した。当時の世間では誰も知らない。それ故、誰からも祝われない仕方で誕生しました。ある人の言葉ですと、それを歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、自らの興奮を抑えつつ、しかし確信を持って、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と記録するのが福音書記者ルカだったのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

さらにルカのスクープは続きます。その知らせを受けた最初の人が羊飼いたちでした。羊飼いとは、初めから住民登録の対象外の人でした。だから世間が人口調査でごった返している最中にベツレヘムの野で羊の番をすることが出来ていたのです。ではなぜ神さまは、羊飼いたちにまず御子の誕生を知らせたのでしょうか?結論を言えば、だれよりも彼らこそイエスさまを必要とする人たちだったからでしょう。
ところでルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われたことを伝えています。その理由は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」とあります。「場所がなかった」とは、「迎え入れてはくれなかった」ということです。実はこれこそ羊飼いたちが経験していたことです。「お前なんか居ても居なくてもいい」と人々から扱われ、深く傷つく経験を何度もさせられていた。その彼らに、神さまは御子誕生の最初の知らせを伝えてくださったのです。
イエスさまがおられた場所はきっと臭かったでしょう。ただその「臭い」こそ羊飼いが身にまとっていた「香水」なのです。羊飼いたちからしたら全く自然な臭い、むしろホッとできるような香りだった。羊飼いたちが恐れることなく近寄ることができるように、しっかりと「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして飼い葉桶に生まれてきてくださった。しかも赤ん坊の姿で生まれてきてくださった。神さまって何と優しいお方なのでしょう!
イエス・キリストはひっそりとお生まれになりました。それは、ひっそりと生きることしかできない人、片隅にしか居場所を見つけることができない人の救い主になるために、忘れ去られるような仕方で、本当に静かに生まれてくださったのです。そして、羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったのです。クリスマスの夜に、飼い葉桶の中に、オムツにくるまって、誰に認められることもなく、産声をあげているイエスさま。そのお方の誕生によって神の恵みの支配がこの世界に始まった。全ての人の救い主となり、まさに全ての顔から涙を拭おうとする神さまの闘いが、この時から始まったのです。私たちは、この王なるイエスさまの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びを今日、もう一度、共に確認し、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美しながらの歩みを進めて行きたいと願います。
お祈りします。

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