神の可能性を信じて
松本雅弘牧師
ヨナ書2章1~10節 マタイによる福音書19章16~30節
2019年8月18日
Ⅰ.金持ちが天の国に入るのは難しい
今日、お読みしました聖書の箇所は、主イエスがエルサエムに向かって最後の歩みをしているその途上での出来事です。
一人の若い青年が、永遠の命を手に入れたいという願いをもって、主イエスに近づきました。昔から「富める青年」と呼ばれていたこの青年は、永遠の命を得る道について、主イエスと語り合う特権に与ったのです。
しかし、対話の結末はどうだったかと言いますと、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(22節)と出てきます。
前回、この青年を、「弟子になりそこなった青年」と呼ぶ人があることを紹介しました。この時の青年、彼は「悲しみながら」立ち去るのですが、この「悲しみながら」という言葉は、とても深い、心痛む悲しみを伝える言葉が使われていると言われます。
弟子になりそこなった悲しみ。主イエスに心惹かれながらも、永遠の命の約束をいただけなかった悲しみでしょう。
その理由についてマタイは、彼が「たくさんの財産を持っていたから」と述べています。彼にとってのそうした財産、「これさえあれば、人生、やっていける」という財産、彼にとっての、ある種の人生の拠り所であった財産が、実は主イエスとの間を隔てる大きな壁になっていたのです。
ですから、主は、ご自身との間を隔てる財産という壁を取り払い、まさに幼子のように、主イエスのふところ目がけて飛び込んでくることを彼に求めたのです。
このやりとりの一部始終を見ていた弟子たちに向かって、主は語られました。「金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23、24)と。
これは当時の常識を覆すものでした。何故なら富は神さまの祝福と考えられていたからです。これを聞いた弟子たちは非常に驚き「それでは、だれが救われるのだろうか」(25)と言ったと出て来ます。これに対して主イエスは、「らくだが針の穴を通る」というたとえをお語りになりました。
Ⅱ.神は何でもできる
さて、こうした弟子たちの反応に対して主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(26)と言われたのです。
主イエスが言わんとしているのは、「だから金持ちは救われない」ということではありません。むしろ全く別の角度、全く新たな可能性を示しているように思うのです。
つまり、「人間にできることではないが、神は何でもできる」ということです。考えてみれば確かに「人間にできることではないが、神は何でもできる」という使信は、聖書全体を貫く基本的なもの、この言葉は聖書全体に響いているメッセージでしょう。
Ⅲ.主に従うことから来る報い
富める青年は、心を痛め、深く悲しむのですが、主イエスに従うことなく立ち去っていきました。その直後、そこに居合わせたペトロが、その青年と自分たちを比較して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(27)と主張しました。
このペトロの言葉の冒頭にある「すると」と訳された言葉を、口語訳聖書では「そのとき」と訳していました。
「そのとき」とは、まさに26節で主イエスが弟子たちを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃった「そのとき」のことです。
そのときに、ペトロが「主よ、私たちはそれをやったのです」と答えたというのです。考えてみれば、これは本当にちぐはぐです。「神にしかできないこと」と言われた主の言葉を遮り「主よ、違います。人間にもできる。実際、私たちはそれを成し遂げたのです」と応答したのです。
しかもこの会話の前には「金持ちが天の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しいことだ」との主の言葉に「それでは誰が一体救われるのですか」と問い返した弟子たちの言葉に対し「いや、神に不可能なことは何もない。神にはそれがおできになる」と言われた、その主の言葉を否定する発言です。
このように読んでいくと「それでは誰が一体救われるのですか」という問いかけは、ペトロ以外の弟子たちがしたのかもしれません。何故ならペトロ自身は、自信満々「私たちはしっかりとあなたに従ってきました」と告白しているのですから。
ペトロは主イエスの言葉を理解していなかったのではないかと思います。しかしそれでも主はそうしたペトロを受容しておられます。
こうしたことを踏まえて、もう一度、26節に戻ります。
この「神には何でもできる」という個所をギリシャ語で見ると、「どんなことでも神には可能だが、しかし人間においては不可能だ」とはっきりと語っておられるのです。
しかも、主はこの言葉を、弟子たちをちらっとご覧になって語られたのではなく、じっと見つめ、心の中まで見通す、という見方で、「それでは、だれが救われるのだろうか」と戸惑い驚き語った弟子たちの心をじっと見通した上で、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」、「神には何でもできる」とおっしゃったのです。
そして、らくだの比喩を使い、どのような工夫をしても、金持ちが神の国にそのまま入るのは難しいと断言されたのです。
その言葉を聞いた時、「ああ、それならば、それは金持ちだけの問題ではないのではないか」と、弟子たちが気づいたのです。
何故なら富は祝福の象徴です。そうした祝福に与る者ならば、永遠の命も当然、彼らのものであるはずなのに、その考え方をひっくり返されたのです。
イエス様は、金持ちこそ天の国に入るのは難しい、永遠の命を得ることは困難だ、とおっしゃったのです。それに対して弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」と応答した。
私はこのやりとりを読みながら心に思い浮かんだことがあります。この出来事の何週間後か分かりませんが、主イエスが十字架に向かう時、かつて「富を捨てて従って来た」と告白したペトロが、「命を捨ててでも、あなたに従います」と豪語する場面が出てくるのです。
19章に戻ります。26節に「イエスは彼らを見つめて」とあります。この時の主イエスの瞳には、そうしたペトロの弱さ、愚かさ、空しさのすべてが映っていたことでしょう。しかしそのペトロに対して敢えて、「あなたの言うように、わたしに付いてきた者には、こういう永遠の命が与えられる」とおっしゃるのです。
そこまでを見据えたその上で、主イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言ってくださるのです。本当に感謝なこと、ありがたいことだと思います。
Ⅳ.神の可能性を信じて
自分自身を見る時に、私たちは、時として主イエスの弟子として、一生涯、主に従うこと自体がとても不可能に思えることがあるかもしれません。学生の間は時間があるから礼拝に集えたけれども、就職して仕事が忙しくなったら、果たして続けて礼拝に来ることができるだろうか…と自分の自信のなさに気づくことがあるかもしれません。
しかし、私たちはそこでこそ主イエスが示された神の可能性に心を留めたいのです。
「人間にできることではないが、神は何でもできる」のです。
ヨハネ福音書に、聖書の中の聖書と呼ばれる聖句があります。3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
これが神さまの御心、このために主イエスが生きられ、教えられ、十字架への道行きを歩まれたのです。そうであれば、全ての人が招かれているのです。お金のない人も、お金のある人も、それぞれの仕方で主イエスに従う道が示されていくということです。
使徒パウロは言いました。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:13)。
この神の可能性を信じて、私たちも歩んでいきたいのです。もう一度、今日の30節をご覧ください。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
そして、その言葉に続いて20章から「ぶどう園の労働者のたとえ」が続きます。
「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(20:16)。つまり、今日の19章30節の御言葉がぶどう園の労働者のたとえ話の結論部分を結ぶ言葉となっているのです。「後の者」って誰でしょう。富める青年かも知れません。彼がこの後どうなったか分かりません。でも、夕刻になって、ようやくぶどう園に辿り着いたかも知れないのです。そして弟子たちと同じ恵みに与ること出来た。
何故。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」からです。お祈りします。