神の子としてー礼拝に生きる

2018年1月28日
和田一郎伝道師
申命記6:4-15
マタイ4:1-11

Ⅰ.サタンという存在

イエス様は、ごく普通の男子として成長され、およそ30歳の時にナザレでの生活を離れて宣教の働きに出ます。宣教の働きに就く前に、二つの事をイエス様はなされました。それが洗礼者ヨハネから洗礼を受けること。そして今日の聖書箇所で荒れ野に行かれてサタンの誘惑を受けるという二つの事です。
神の子として来られたイエス様ですから、洗礼を受けることも、サタンの誘惑を受けることも、必要なのだろうか?と思わされます。洗礼者ヨハネは、当時のユダヤ人たちに、悔い改めの証しとして洗礼を授けていました。しかし、イエス様には罪はありませんでしたから、反対にイエス様からヨハネに洗礼を授ける方が、ごく自然なことだったでしょう。しかしイエス様が洗礼を受けることにこだわったのは、やがて私たち人間の罪を負う日が来ることを知っておられて、私たちと同じ立場に立つことを願われたのです。私たちと同じ「人」として、イスラエルの民に加わってくださるためでした。
そして、荒れ野に行かれて試練を受けました。「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とありますから、これは神様の御心によって行かれたのです。神様はサタンによって、私たちに誘惑が起こることを許されます。そして、この時のイエス様に対する誘惑とは「お前が神の子なら・・・」という誘惑です。しかもこの直前で洗礼を受けた時に、「これは私の愛する子」と、父なる神の言葉を聞いた直後に「お前が神の子なら・・・」と言ったのです。あたかも、そうではないかのように、これから宣教の働きにでようとする時に、キリストの心の中に、迷いを湧き起こそうとするサタンの試みでした。
ところでサタンというものは、旧約にも新約聖書にも出てくる存在です。悪魔とか悪霊の頭などとも呼びます。サタンという言葉はへブル語ですが、「分離する」とか、「非難する」といった意味で使われます。創世記では蛇の姿をしたサタンが、アダムとエバを誘惑しました。その時も言葉巧みに、神様と人間との信頼関係に、疑問を湧き起こさせる働きをします。要するに神と人とを分離させようとする働きです。サタンは、まっこうから神を否定するようなことはしません。巧妙な知恵を使って、「あなたにはもっと価値のあるものがあるのではないか?」。「苦労しないで、もっと楽をしても神は怒らないだろう」と囁きます。イエス様に対しては、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と、神の言葉もいいけれど、食べたいものを食べてもいいじゃないか?「神の子なら、神殿から飛び降りたらどうだ。・・・それでも、あなたは死なないだろうから、それを見た人々は驚いてついて来るだろう。こつこつと宣教活動などしなくてもいいじゃないか」。そして最後に、「もしこの私サタンにひれ伏して私を拝むなら、この繁栄した世界を支配できるようにしよう」と魅力的なものを見せます。サタンに礼拝することを条件にした、ちょっとした取引で得られます。「あなたはこの世を救って、すべてのものを治めるために来たのだから、十字架の苦しみなど経験しなくても、この取引に応じればいいじゃないか?」という誘惑です。
ところが、このサタンの誘惑はイエス様や聖書の中の人物だけに囁くのではありません。今この話しを聞いている、みなさんにも囁きます。「お前も神の子だろう?」。「もしお前が神の子ならば・・・大丈夫だ」。「礼拝も大事だが、仕事も大切だ」「礼拝もいいけれど、奉仕も教会の務めだから」という、一見もっともな、しっかりとした考えに聞こえる誘惑です。おそらく日本の中では9割以上の人が「礼拝よりも、もっと大事なものが・・・」。と言うでしょう。一歩社会にでれば誘惑に当たる、という環境に私たちはあります。

Ⅱ.私を礼拝から遠ざけるもの

私たちを礼拝から遠ざけるものはいったい何でしょうか。イエス様が荒れ野で受けた誘惑は3つありましたが、この事との関係でヨハネの手紙一に次のような御言葉があります。
「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父(おんちち)から 出ないで、世から出るからです」 (ヨハネの手紙一  2章16)
これはイエス様が荒れ野で受けられたものと、アダムとエバが受けた誘惑とも共通すると言われる聖書箇所です。
この「肉の欲」とは、人間の様々な「欲」のことを指しています。イエス様が断食をしてお腹がすいた時に、食欲に訴えて誘惑したように、人間の欲というのは神様が与えて下さったものですから、本来悪いものではありません。食欲などの欲がなければ人間は生きていけません。しかし、その欲を満たすと次の欲が現れます。「もっと」とか、「もう一度」と、いつのまにか自分でコントロールできなくなって、欲望に支配されてしまいます。その事に私たちは「気づかない」という性質があります。その時、私たちが神の子として、神の国の住人というアイデンティティーに基づいて生きているかどうか?ということが問われます。この世の価値に生きているのか?神の国の中に立っているのか?という境界線です。神の国に生きていれば、必要なものはすべて満たされます。その信頼があれば必要以上のものを欲したりはしません。求めれば必要なものは与えられる、もしくはすでに与えられていることに気づくはずです。

「目の欲」は、人に善く思われたいという虚栄心のような欲と解釈されています。イエス様が神殿から飛び降りてもケガもなく助かれば、物凄いパフォーマンスだったでしょう。人間にはとてもできない、まさしく神の子であることの証しとなります。人の目に自分がどのように映るのだろうか?少しでもよく見てもらいたいという虚栄心と、日本人の文化の中では「世間体」というものがあり、虚栄心も世間体を気にすることも、決して人を傷つけるわけではないので、とても見えにくい「欲」です。
たとえば、私たちは、自分の価値を人からの評判で計っていることはないでしょうか。 周りの人が自分を何と言ってるのか、それしか自分の価値を知る方法がないと感じるわけです。しかし、人からの評判というものは、いっときの代用品でしかありません。残念なことに、周囲の高い評価は気まぐれで、束の間で、無くなる時はあっという間です。しかし、神の子とされた私たちは、私がどうであろうと神様の前に価値ある存在です。
他の人達が私をどう思おうが関係ありません。私たちが、今神の国に住んでいるのなら、私がどんなに罪深くても、神にとって価値ある存在です。世間体や虚栄心に振り回される必要がありません。
「生活のおごり」というのは、「暮らし向き」とか「富」とも訳されています。サタンはイエス様に、この世の繁栄ぶりを見せて誘惑しましたが、モノの欲や、お金の欲はだれにでもあります。モノをもらって幸せに感じることや、お金が手に入って安心することがありますが、これを得ようとすることは、決して悪いことではありません。しかし、モノやお金を得ることに、心を支配されているのであれば話しは別です。そのために、私たちは生かされているのではないのです。これもまた、神の国に立ち、必要な者はすべて与えられるという信頼があれば、モノやお金に支配されることはないのです。
これらのように「肉の欲」「目の欲」「生活のおごり」は、神から出たものではなく、この世の罪から出てきたものです。サタンの誘惑は、私たちを神から切り離して、この世の罪へと向かわせます。サタンが「おまえが神の子なら・・・」と囁かれても、私たちが神の国に住む者として、しっかりと立っていれば誘惑に支配されることはありません。
私たちが世間の評価や、いつも移ろう限りのある価値観を気にしているのであれば、心に平安はありませんが、神の恵みと力に信頼するのであれば、それは変わることのない平安となるのです。私たちはそこに留まり、神を礼拝する者として、神に似た者へと近づいていきます。

Ⅲ.一週間という営み

イエス様は10節で、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とおっしゃいました。これは申命記の引用です。要するに「あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕える生活をする」というのです。私たちは、これを一週間のサイクルで生きるように、一週間という生活の秩序を与えられました。
「六日の間に主は、天と、地と、海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して 聖別 されたのである。」(出エジプト 20章11)
6日働いて1日を神のもとで安息するという、一週間の生活の秩序です。
主日の礼拝の一日が一週間の軸となって、6日間は派遣されたそれぞれの生活の中で、神の国に立つ者として地の塩、世の光となる。この摂理がこの世の支配から守られ、神の恵みを受けた神の子として生きる、変わることのない平安の生活となるのです。この事を悟るのであれば、誘惑もまた恵みであります。誘惑という試みがあるからこそ、この与えられた秩序の大切さを改めて知ることになります。礼拝の一日が一週間の軸となり、神の子としての秩序が守られますように。お祈りをします。

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