神の愛を実感する交わりづくり
和田一郎副牧師
ヨハネの手紙一4章19節
2020年12月27日
Ⅰ.コロナウイルスが変えたもの
今日は2020年最後の礼拝の日となりました。毎年この日は、その年の主題聖句から一年を振り返っています。今年の主題は「神の愛を実感する交わりづくり」でした。「交わりづくり」そのことを大切にしようとした年に起こったのが新型コロナウイルスでした。あっという間に世界中に拡大して世界で170万人の命が失われていますが、これは広島の原爆で命を落とした方の数の12倍。つまり原爆12個分以上の命が世界で失われると誰が予測できたでしょうか。私たち高座教会でも、かつてない特別な一年であったと思います。3月末から約3か月はオンラインだけの礼拝となり、日曜日に教会がひっそりとしているというのは教会始まって以来の特別な経験でした。礼拝堂に集まることを禁止せざるをえないことで私たちは悩み、オンラインでいいのだろうかという葛藤を続けてきました。
しかし聖書を見ますと状況に応じて礼拝を守っていたことを知ることができます。たとえば礼拝の場所について、旧約聖書の人々はいつもエルサレムの神殿での礼拝が本当の礼拝だと当たり前に思っていた。しかし、バビロン捕囚となって外国に連れて行かれた人々は、行ったその国で礼拝を続けました。それは、やがてキリスト教の教会の元となっていきました。また、ダビデが命からがら逃亡している時、祭司の他には食べてはならない礼拝用のパンを分け合って命をしのぎました。それをイエス様は「人が安息日のためにあるのではない。安息日は人のために定められた」といって安息日の規定より、人の命を優先されました。これらのことからも、私たちは伝統的なスタイルを守ることよりも、まず尊い命を優先します。神様から預かっている尊い命を大切にしながら、どのような礼拝と信仰生活を守っていけばよいのか、考え続けなければなりません。
新しいスタイルを柔軟に考えることは、宣教の機会を広げるきっかけとなることを感じています。特にコロナ渦とは関係なしに、礼拝に行くことが困難となった高齢の方や、健康、仕事、家庭の事情で思うように礼拝に行くことのできない方もいて、その事情は多様化しています。ですから、この機会に宣教のスタイルを工夫することによって、宣教の幅が広がっていくのではないかと思います。
Ⅱ.今年の主題「神の愛を実感する交わりづくり」
しかし、教会では変えることのできないものも多くあります。その中の一つが、教会における交わりづくりです。今年の主題は、「神の愛を実感する交わりづくり」です。そして聖書箇所はヨハネの手紙第一4章19節です。「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです」
この御言葉で鍵となる言葉が「まず」という一言です。私たちの愛と、神様の愛には違いがあります。私たちの愛には不完全さがありますが、神の愛は完全な愛です。その神の愛が「まず」先にあるというのです。人間は生まれてから親の愛の中で育ちます。幼い時の親の愛がなければ自分を愛することも、他人を愛することもできません。同じように、神様は、私たちが生れる2千年も前に、ご自分の独り子イエス様をこの世に送り、十字架にお掛けになりました。私たち人間の罪を取り除くためでした。つまり、私たち人間を救うために大切な独り子を犠牲にしたのです、そこに私たちに対する愛がありました。
私たちはこの愛に触れるまでは本当の愛を知りませんでした。男女の愛とか親子の愛とは違うさらに深遠な愛、すなわちイエス・キリストの犠牲において神が私たちを愛してくださった。その本当の愛が、まず先にあるから私たちは神を愛し、自分を愛し、他人を愛することができるのです。世の中には神の愛を知らずとも、隣人に愛を示している善良な人がいます。しかし、人間の中からでる愛は不完全です。なぜなら人間は自己中心という罪、自分という不完全なものから出てくるからです。
「まず、神がわたしたちを愛してくださった」それを知るところから本当の愛が現れていきます。隣人を愛すること、交わりを大切にすることは、信仰において愛するということです。これが聖書に記されている神の掟です。
隣人への愛の第一歩はその人に関心を持つことですし、もう一歩先にあるのが共感を持つということです。共感というのは同情ではありません。「同じことが、私にもありうるな」と考えることです。今年は、まさに他人に関心をもち共感することの大切さを知った年ではないでしょうか。「神の愛を実感する交わりづくり」というテーマはコロナがなくても大切なテーマでしたが、コロナ渦にあって「神の愛を実感する交わりづくり」がないと生きていけないと思わされるのです。「人が独りでいるのは良くない」と神様が言われたように、交わりの中で生きるということは、命に関わることなのだと思わされるのです。
私は施設や病院を訪ねることが、すべてできなくなりました。入院、入居されている方は家族との面会もできない状況にあります。しばらくの我慢だと思いましたが、人と会えない寂しさが一層深刻になってきていると思わされます。今年もいくつかの葬儀がありましたが、施設に入居していた方が、家族と面会ができなくなってから元気がなくなっていったという話を聞きました。逆に、教会では祈り会とか家庭集会という小グループがたくさんあります。メンバーとの付き合いが、数十年続いているグループがあります。コロナになって人とはなかなか会えないけれども、教会の小グループの仲間が連絡をくれる、時々訪ねて来てくれる。それがかけがえのない、大切な生きる力になっているという話を耳にします。まさに神の愛を、交わりの中で実感されているのではないでしょうか。
Ⅲ.「人が独りでいるのは良くない」
ローマ皇帝フリードリッヒ二世の実験というエピソードを知りました。生まれたばかりで捨てられた赤ちゃんを、話しかけたり、あやしたり、目を合わせたり人間的な接触を禁じたら、どんな言語を話すのだろうと実験したというのです。しかし、赤ちゃんたちは、大きくならないうちに全員死んでしまったというのです。愛情や人間的出会いがないと、人間は生きることができない。「人が独りでいるのは良くない」という、創世記にある神の言葉の意義深さを認識させられます。
イエス様は、ある町に来られた時に、ザアカイという人を見つけました。ザアカイはお金はあるが友だちがいなかった。町の嫌われ者だったのです。そんな状態から、這い上がろうとしていたと思います。そんなザアカイにイエス様は声をかけた。「今日、あなたの家に泊まることになっている」と言われてザアカイの友人になられた。ザアカイと友人になるということは、彼に共感して共に重荷を負うことです。
ザアカイがもっていた寂しさを、自分も受けるということです。ザアカイはキリストの愛を受けました。そして、他人を愛する心が芽生え、人生に変化が起こりました。町の嫌われ者の心の奥に隠れていた寂しさ、それを知ってくださり、関心をもち、共感してくださったのは、その日初めて町にやって来て声をかけてくれたイエス様でした。神が、まず、私たちを愛してくださった。
Ⅳ.寂しさへの関心、共感、愛
私はいつも3歳の息子とお風呂に入ります。ある日、楽しく風呂に入っていると息子が急に静かになりました。思い詰めたような顔をしているのです。「どうしたの?」と聞くと「なんでもない」とポツリと言って、泣くのを我慢していたのですが、風呂から出ると大声で泣き出してしまったのです。「どこか痛いの?」「怖いの?」「嫌なことあったの?」あらゆる質問をしていって、やっと「寂しいの?」という言葉に初めて「うん」と言いました。何が寂しいのだろうと聞いていきました。すると「幼稚園が寂しい」と言うのです。来年の春から幼稚園に入るために保護者の説明会に行った時、息子はてっきり楽しく遊べると思っていた幼稚園で、保護者との入園手続きなどの話を横で聞かされるだけで、自分が置いてきぼりになった気がして寂しかったようなのです。春から幼稚園に行ったらまた、そんな寂しい思いをさせられると思ったのでしょうか。記憶の中にある出来事で、心がいっぱいになるというのを見たのは、親としては初めてで、心が育っているのだと思いました。これから大人になっても、寂しいという感情は続きます。寂しさは周りに人がいても感じるものです。いや、人の中にいればこそ、自分は関心をもたれてない、共感してくれる人が、誰もいないと感じた時に、寂しいという感情は湧いてきます。
今、私たちの周りには、たくさんの「寂しい」という思いがあるのではないでしょうか。コロナによって、その寂しさは精神的にも肉体的にも厳しさを増しています。イエス様はザアカイの寂しい思いを知って、声をかけてくださいました。ザアカイはその愛を実感した時、他人を気遣う思いが湧いてきました。それが、神の愛を実感する交わりづくりの第一歩です。私たちは、信仰において寂しい思いに関心をもつことができるはずです。信仰において共感する、信仰において愛することができます。イエス様が愛したように、私たちも愛し合いたいと思うのです。「私たちが愛するのは、神がまず 私たちを愛してくださったからです」。お祈りしましょう。