第一のものを第一とする生き方
2017年10月22日 夕礼拝
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
創世記1章26~28節
コロサイの信徒への手紙1章15~17節
Ⅰ.第一に優先しているものは何ですか?
教会に所属している人はクリスチャンと呼ばれますが、コロサイの信徒への手紙という手紙が書かれた時代に、クリスチャンという言葉が生れたようです。ギリシャ語で「クリスチャノス」と呼ばれました。イエス・キリストを、自分たちの救い主と信じる人はクリスチャンと呼ばれました。ある人が、「クリスチャンになるということは、人生の目的を変更することだ」と言いました。本当にそうだと思います。人生の目的、自分の生き方の行き着くところ、何を第一として求めて生きていくのか。それを変更することが、クリスチャンになることだというのです。人生の目的が変わってくれば、生活の中でも優先順位が変わってくるはずです。みなさんは何を第一として過ごされているでしょうか。わたしは信仰をもつのが遅くて、大人になってからクリスチャンになりました、ですから社会人になった頃は仕事中心でした。家に帰ってきても仕事のことが頭から離れないという生活をしていました。仕事で成果をだせるにはどうしたらいいか。仕事で認められることが最優先順位。そうだったと思います。
コロサイの信徒の人々も、当時いろいろな思想や宗教を信じていたようです。自分を第一とした自分に都合の良い思想、自分に都合の良い神様を選んでいたということです。当時流行りの神様、ニーズに合った神様を崇拝して生活をしていたようです。その中の一つがイエス・キリストで、イエス様はいくつかある信頼できるものの一つのように、思っている人も多かったのです。
Ⅱ.コロサイの信徒への手紙
しかし、クリスチャンと呼ばれるわたしたちもそうですし、今日の聖書箇所の手紙を書いたパウロという人も同様に、イエス・キリストを沢山ある神様の一つなどとはしていませんでした。唯一の救い主、唯一の神であると信じていました。今日お読みした聖書箇所15節から17節の所は、イエス様がどのような神であるのかを説明しているところです。
15節「御子は、見えない神の姿」とあります。御子とはキリスト、イエス様のことですが、見えない神の姿とあるように、イエス様は十字架に架かって死なれて、復活した後に天に昇られました。ですから今は目には見えません。見えないけれども、今も生きてわたしたちに関わって下さっている、そしてイエス・キリストは神の姿、神そのものであると言われるのです。当時の信仰者の中には、イエス様のことを神様と人間の間に立つ、預言者ですとか、天使のような存在だと勘違いしている人たちがいました。しかし、そうではなくイエス・キリストが主なる神様であることが、ここではっきりと書かれているのです。そして、キリストはすべてのものが造られる前に在ったと書かれています。創世記の最初に天地創造の物語が書かれていますが、この世の中すべてが造られる前から存在した、すべての根源の方。すべての最初に在った方だというのです。
そして、天にあるものも、この地上にあるものも、造られたのはキリストです。目に見えるものは勿論、この世にある目には見えないものも含めてすべてを治め、主権をもっているのがキリストです。例えば、日本の国では国民に主権がありますから、主権在民と言ってわたしたち国民に主権がありますが、根源的にはこの世は、神の摂理の中にあって、神に主権があるのです。
さらに、この世の中にあるものはキリストによって、キリストのために造られたと書かれています。「この世がキリストのために造られた」と大胆に書かれています。先ほどは聖書の最初のページ、創世記で天地創造の以前からキリストが在ったと話しましたが、聖書の最後のページの黙示録には、「わたしはアルファであり、オメガである。最初のものにして最後の者。初めであり、終わりである」とあります。アルファであり、オメガはギリシャ語でアルファベットのAからZを意味しますから、キリストは最初であり最後である。天地創造の時から、この世の最後であるキリストが再び来られる時までも、この世の主権者です。創造の主であり、わたしたちの目的もこの方にあります。
はじめに「クリスチャンになるということは、人生の目的を変更することだ」と話しましたが、わたしたちがキリストにおいて造られたように、その目的もキリストに近づいていくことにあります。キリストの教えを守り、キリストに似た者となっていく、それを目的としていくのがクリスチャンの生き方です。
Ⅲ.イエス・キリストの教えは、神と人との関係が軸になっている
万物はキリストによって創造された、わたしたち人間も神であるキリストによって創造されたと話しをしました。さらに、わたしたち人間を造った目的をキリストのためだとも話しましたが、このわたしたち人間を造られた神様の思いというのは、どのようなものであったのでしょうか。次の三つのことが考えられると思います。
一つ目は、神様が語りかける対象として、話しかける相手として創造された。
二つ目は、神様の言葉を聴くことができる存在として人間を創造された。
三つ目は、神の語りかけを聞いて応答することができる存在として人間を創造された。
ですから、神は人に語り掛け、聞く者として、そして神の声に応答する者であることを求めておられるのです。
話すこと、聞くことはコミュニケーションの基本です。それで終わってしまっては不十分です。聞いたことに応答して行うことで、相手の信頼を深めることができます。神様とのこの関係は、そのまま人と人との関係も表しています。みなさんは、どのようなことを気にかけて周りの人と話し、聞き、行動しているでしょうか。例えば一番身近な家族との関係があります。夫と妻の関係、親子の関係、兄弟の関係、祖父母や義理の親との関係もあります。 職場にもいろいろな関係があります。上司との関係、同僚や部下との関係、お客さんや仕入れ先との関係があります。学校に行っている人は、先生と生徒の関係、先生同士、生徒同士、保護者との関係などさまざまです。他にも沢山の関係の中で過ごしていますが、それらの関係をどのように扱って生きていけばよいのか。その指標となるヒントが聖書には書かれています。
聖書の中にもさまざまな人間関係が描かれています。それも順調な人達ばかりではありません、いや家族関係などでも、問題のある家族がほとんどです。アダムは、神様との約束を破って、木の実を食べてしまいますが、自分の過ちを妻に責任転嫁をしたのですね。ヤコブは12人の子どもがいましたが、一人の子を特別扱いして、贔屓にしたことで兄弟の仲が悪くなってしまいました。そんな明らかに問題のある親や家族が、聖書にはたくさん出てきます。
今の世の中は、人と人との関係が難しい時代だと思います。ニュースを見ると耳を疑うような出来事がいっぱいです。わたしもそうですが、顔と顔とを合わせない、顔を見ないコミュニケーションが増えましたね。スマホやパソコンでコミュニケーションをとる事が圧倒的に多くなりました。人との付き合いを合理的に、スピーディに、短く、手っ取り早い付き合いにしようと思う人も多いと思います。しかし、キリストの教えは隣人を愛しなさい、という手間がかかって面倒な事を優先させます。隣人の為に祈ったり、助ける為に準備したり、時間をかけてその人と一緒にいなさいなどと言います。そして、さらに最優先にするのは神との関係だと教えています。自分と神との関係を整えるのが最優先です。
Ⅳ.十字架の真理
教会には十字架があります。十字架はキリスト教のシンボルです。十字架には横の棒と縦の棒があります。横の棒は人と人との関係の大切さを表しています。縦の棒は神様と自分の関係の大切さを表しています。この縦の関係、神様とわたしの関係が最優先です。なぜでしょうか? 神がどれだけわたしたちのことを愛してくださっているかを知り、わたしたちも神を愛することによって、自分自身を愛し、隣人を愛する術を知ることができるからです。どうぞ一人でも多くの方に、キリストの教えを学んで頂きたいと思います。
キリストが十字架で死なれたことは、赦しであり、愛であったこと。十字架の真理を知って、みなさんが自分の生きる道として歩んでくださることを、心から祈っております。