結婚の真実―第七戒

松本雅弘牧師
出エジプト記20章14節
マタイによる福音書5章27-32節
2021年11月21日

Ⅰ. はじめに

今日の聖書の箇所は、十戒の第七の戒め、「姦淫してはならない」に関する主イエスの説き明かしですが、主イエスは、そのことから結婚の真実について説き明かしていますので、今日は、その説き明かしに耳を傾けてみたいと思います。

Ⅱ.「姦淫するな」の戒め

今日お読みしました聖書の箇所は大きく二つに分けて理解することが出来ます。前半は27節から30節で、「姦淫してはならない」という戒めについての説き明かし。それ以降、「離縁してはならない」ということに関する説き明かしで、二つに共通している点が「結婚の真実」、言い換えれば「結婚を重んじる」ということです。
ところで、「姦淫」とは結婚外の男女の性行為を差す言葉です。ここで主イエスは、「姦淫」という行為ばかりか、すでに心の中に起こった心情そのものをも「姦淫」と同様のこととして理解しておられる。つまり第七の戒めを徹底的に解釈されます。
そもそもこの「姦淫」とは何でしょうか。よく言われることは、「姦淫とは侵入を意味する」というのです。結婚している男女のところに、ある人の表現を使うならば、「土足で踏み込んで行く」。いや実際に「姦淫」という行為にまで行かなかったとしても、目や心において既にそうした「侵入」が始まっていたら、それは「姦淫」の罪なのだ、と主は言われるのです。
私たちの信仰告白は、「結婚と家庭」について次のように告白します。
「神は基本的共同体として家庭を創造された。そこにおいて人は愛、親密な交わり、支え合い、保護、訓練、励まし、そのほかさまざまな祝福を経験する。このようなかかわりの中に子どもが生まれてくるのである。」(信仰告白6.15)
この告白文によれば、姦淫は、神が人間に与える意図をもって造られた家庭という夫婦の関係に、外側から侵入する行為であり、仮にそれが起こるならば、夫婦関係にダメージがもたらされるだけでは済まされず、子どもたちや家族も神さまの用意された祝福にあずかることが出来ない。つまり家庭が神の意図したように機能しなくなるのです。

Ⅲ.女性の権利としての「離縁状」

さて、モーセの時代、イスラエル共同体を取り巻くカナンの社会では女性が人として尊重されずモノのように扱われていた現状がありました。そして残念ながら、イスラエル共同体でも同様な現実があったようです。そうした実情を踏まえたモーセは、離婚を言い渡された女性がせめてその後、結婚できる身分にあるということを証明できるように、「離縁状」を持つ権利を保障しなさいと命じたわけなのです。
ところが、モーセの時代から千年以上も経過したイエスさまの時代、女性の最低限の権利を保障するための「離縁状」さえも、男性によって悪用されるという現実がありました。「離縁状」を渡しさえすれば、いつでも簡単に離婚できると考えられました。
実は、この後マタイ福音書19章でこの問題を巡って、ファリサイ派との間に論争が起こり、結果として主イエスの御心が明らかにされていく出来事がありました。
主イエスはまず、「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった」、そして「こういうわけで、人は父母を離れ二人は一体となる」と創世記2章の言葉を引用しながら語られました。つまり神ご自身お一人で完結しておられるが、人間は男性だけ、あるいは女性だけ、あるいは一人だけで完結して生き得る存在ではない。互いに相手を必要とし、他者と共に生きる存在として造られているのだ、と語られたのです。ここに表明された主イエスの理解は、当時のユダヤ人にとっては物凄く画期的で、ファリサイの人々からしたら想定外だったようなのです。彼らが主イエスから引き出したかった答えは、男性の離婚の権利がどれほどの幅をもって許されるものなのかで、しかも前提に「女性の側に、離婚に関わる権利はない」という考え方がありました。これに対し、主イエスは彼らが信頼を寄せていたモーセの真意は、離縁された女性がそのまま放置されたら生きていくこともできないので、彼女たちの再婚の権利を保障するために、「離縁するならば、きちんと離縁状を渡してからするように」と語った。それゆえ、「淫らな行いのゆえでなく妻を離縁して、他の女と結婚する者は、姦淫の罪を犯すことになる」と語ったのだと、今日の第七の戒めに触れながら教えられたのです。

Ⅳ.神さまが造られた自分として生きる恵み

さて、この議論に、思いがけずに主イエスの弟子たちが口をはさみ、「人が妻と別れてはならない理由がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と語ったのです。まさに弟子たちもファリサイ派の人々と変わらない女性観、結婚価値観を持っていたことが暴かれていきます。
主イエスの時代、ユダヤ社会では結婚は、「産めよ、増えよ」という神の命令に対する応答で義務とさえ考えられていました。しかし主イエスは一歩踏み込み、結婚しない生き方、それも独身という生き方を認め、積極的に評価までしておられるのです。結婚したくても出来ない人、結婚しない人も当然いたことでしょうから、これは画期的な発言でした。
新共同訳では、この「独身者」という言葉を「結婚できないように生まれついた者」と訳していますが、ギリシャ語では「去勢された者」という語が使われています。ここに、「独身者に生まれついた者」「人から独身者にされた者」「天の国のために自ら進んで独身者となった者」と、三種類の結婚しない人々が挙げられています。
日本聖書神学校に山口里子という聖書学の先生がおられますが、『虹は私たちの間に―性と生の正義に向けて』という書物を書いておられます。その中で主イエスが語った、「独身者に生まれついた者/結婚できないように生れついた者」に触れ、こうした人々の中には、今日でいう同性愛者他、さまざまな性的マイノリティの人々が含まれていた。さらに、当時の「男らしさ」という文化的規範に適合できない人々・しない人々も含まれていたのではないか、と語っておられます。
福音書に出てくる主イエスの教えを読みますと、イエスさまは、結婚という男女の交わりを中心に置いているのは確かですが、それを必ずしも絶対化なさらず様々な生き方があることを認めておられたのかもしれません。だからこそ、主イエスと直接やりとりしたファリサイ派の人々や、時代の子であったご自分の弟子たちからも、そのお考えがあまりにも斬新でありすぎたが故に、ついてきて貰えなかった。逆に、そうしたことを公けに教え、自らが教えたように生きておられた主イエスに対する怒りや憤り、嫌悪の情まで起こり、結果として、十字架があったことを思わされるのです。
使徒パウロは、「私としては、皆が私のようであってほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているので、人によって生き方が違います。」(Ⅰコリント7:7)と語っています。新共同訳では、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」と訳しています。こう語ったパウロも生涯独身を貫きました。洗礼者ヨハネもそうでした。そして他でもない主イエスご自身が、結婚自体、「産めよ、増えよ」という神の命令に対する応答で義務であると考えられていた時代のど真ん中にあって、結婚しない生き方を貫かれた。
今日は「姦淫してはならない」という第七戒の戒めから、その戒めの真意である結婚の真実について、さらに発展して、主イエスの教えから、結婚しない生き方についても見て来ました。先ほどのパウロの言葉、「人はそれぞれ神から賜物をいただいているので、人によって生き方が違います」とありますように、自分の性別/セクチュアリティを含め、神さまからの賜物であることを受け入れ、それが私にとって祝福された状態なのだということを、信仰をもって受けとめるように、聖書は励まし、教えているのではないでしょうか。
私たち自身をお造りになった神さまは、私たちの存在自体を肯定し祝福しておられる。そして、許されるならば、結婚という手段を通して、「愛、親密な交わり、支え合い、保護、訓練、励まし、その他の様々な祝福」を享受するように、また、様々な人と人との交わりを通して祝福を与えようとしておられる。だからこそ、特に結婚という交わりの一つの形態において犯される姦淫の罪は、自分の欲望のために他人の権利、他人の幸福を奪ってしまう深刻な的外れの生き方でもあります。神さまは私たちを愛し、私たちの幸せを願っておられるがゆえに、この姦淫の罪を、ここで強く戒め禁じておられるのです。
神さまが、私たちに与えてくださっている祝福は罪の行為を伴う生活を通して獲得するものではなく、むしろ御心に沿って生きる時に、賜物として与えられるものでしょう。
一つひとつの祝福を、恵みの源なる神さまから、信仰をもって受け止めていきたい。いただいた一つ一つの祝福という恵みを数え、感謝と喜びで私たちの心を満たしていただきたいと願います。
お祈りします。

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